高橋和巳「邪宗門」(9)尻切れトンボの結末

武装蜂起のリアリティー

「ひのもと救霊会」がまるで「共産革命」まがいの武力蜂起に走る、という後半のストーリー展開にはやや飛躍を感じる。

そもそも「武装蜂起する宗教団体」という想定自体には、あまりリアリティーが感じられない。70年安保目前の高揚期にあった、全共闘運動を意識したからだろう。確かにあの頃騒然とした雰囲気があったが、その実態は、一部学生だけの無謀な騒乱だったのではないだろうか。過激化の果てに先細り潰え去った。
エールを送る野次馬もいたが、大部分の大衆は動かなかった。所詮は「革命ごっこ」の域を出るものではなかったのではないだろうか。

「朝日ジャーナル」のような全共闘世代お好みの媒体で連載した作品なだけに、作者の「営業感覚」が反映したということだったのだろうか。甘いナルシズムに追従した。

「オウム真理教」の例があるじゃないか、という反論が出てきそうだ。
確かに無線基地を構築、警察無線を切断、水源に青酸カリを投入しようと試みた、などいう描写などは、オウム真理教がロシア製の武器を貯えてサリンを作った異常さを彷彿させる。だから「ひのもと救霊会」の武装蜂起も決して荒唐無稽な妄想ではない、と。

しかし、本当にそうだろうか。
いわゆる「カルト」と「ひのもと」とは、教団の基本性格がだいぶ異なると思う。

「ひのもと救霊会」は、明治末から昭和初期の北京都地方の村落共同体から立ち上がった宗教教団をモデルにしている。

一方「オウム」は出家主義だった。家族・縁者・地域・職場など地縁血縁を拒否し、信者だけの世界に閉じこもった。民衆の日常とは深い断絶がある。こうしてできた自分たちだけの密閉空間のなかで、集合的な妄想が自己肥大した。得体が知れないので、地域住民からのボイコット運動も起きた。
常識的な生理反応だろう。
これに比べて「ひのもと」はそもそも出家主義ではない。信者は農山村共同体の一員でもある。その中で主体的に「ひのもと」の信仰を選び取った。その強さがなければ、信仰を維持できない。

教団の性質も置かれている社会環境もまったく異なる。それを主人公千葉潔のクーデター蜂起へとストーリーを無理やり飛躍させたのだろう。このあたりから読み続けることに抵抗が募る。

急進的な行動に多くの信者が従順に追従したことになっているが、その肝心の一般信者の具体像は、あまり描けてはいないのではないか。

リーダーが武装蜂起を試みても、多くの信者は従ってこれないのが自然だろう。地域社会に生きている限り、一定のバランス感覚が働くだろうと思う。多くの信者には、それぞれに切実で多様な信仰動機があるのだから、十把一絡げというわけにはいかないだろうと思う。

しかし「高橋邪宗門」の観念のなかでは、教団の滅亡は既定路線だったらしい。
それは作者が強く関心を持ったというジャイナ教の「集団自殺」のイメージへとストーリーへ強引に引っ張り込んだからのようだ。

その「悲劇性」に、当時の若い読者のナルシズムを誘惑する甘い魅力があったのかもしれない。
全共闘に批判的な私やその後の世代、現実主義的な現在の青年たちには、あまり受けない筋書きだろうと思う。
ある特定のイデオロギーの視点にたって社会をトータルに批判したり吟味したりするような思考様式は、今の青年のなかでは少数派だろう。

ところが全共闘世代には、大学を卒業するや否やちゃっかり「モーレツ社員」に変身、「資本主義の尖兵」と化した人々が結構多かったのではないだろうか。
私たちの世代が会社に就職した頃、大学時代にヘルメットを被って棍棒を振り回したことを、酒席の自慢話で嬉しそうに自慢する先輩がけっこういた。
それは、まるで運動クラブの回顧談のようであった。
つまりは、大部分が「流行」に便乗して「エネルギーの発散」をしただけだったのかもしれない。むしろ本気で「革命」を考えた少数派は深い挫折感に陥っただろう。

いずれにせよ、小説「邪宗門」後半のストーリーの不自然さは、宗教団体の一般信者の生活実感が描けていないからではないかと思う。

もともと「ひのもと救霊会」は、開祖行徳まさの神がかりの言葉(お筆先)や奇蹟などにご利益や救いを求めた人々から始まったとされる。教団が大きく成長するほど、一般社会の常識的な感覚とぶつかり、軋轢も生じる。教団が行き延びるための社会的「洗練」が必要になるのだと思う。
その過程で急進性は弛められ、やがて内外の垣根も低くなってゆく。
たいていの新宗教はそこで膨張が止まる。

敗戦直後の混乱状態のなかで、絶望した一部急進的な信者が見込みのない暴動に走るようなことはあるのかもしれないが、おいそれと全体が追随することはないと思う。いくら「神がかり」を巧妙に演出するにしても、千葉潔のわざとらしい「カリスマ性」だけに教団の総体が依拠するのは無理があるだろう。

ともあれ、作者の意図を尊重して中途放棄はせずにストーリーに戻ろう。

蜂起直後の神部(おそらく大本の本部施設があった綾部市をモデルにした架空の地名)という農村地帯に、共産主義的な相互扶助の解放区を一時的もせよ作り上げたことになっているが、文字通り「三日天下」に帰した。
敗戦国の警察権力は弱体だったが、その後ろには占領軍の圧倒的な軍事力が控えていたからだ。実際、敗戦直後の日本では警察権力の弱体部分を進駐軍やヤクザが補っていた側面があるという。

マッカーサー
マッカーサー

教団が理想としてきた「一列平等」、自給自足の「解放区」ということなのだが、やはり「革命ごっこ」の延長戦のように思えてしまう。

宗教団体が一般行政組織を掌握し運用するなどという事態も、あり得ないと思う。いくら地方のお役所の仕事でも、それ相応の経験や熟練、地域住民の信頼性が必要だろう。

根無し草の千葉潔が「世の破滅」というナルシスティックな美意識を抱くのは勝手だが、多くの信者が簡単に追従するとは思えない。
信者の日常は農村共同体に深く掉さしており、そこにかけがいのない生活基盤があるのだから、幕藩体制時代の苛斂誅求に対する農民一揆とか大正米騒動のよう衝動的な暴動はあり得ても、「破滅の美学」に大衆が身をゆだねるとは想像しがたい。
苦もなく鎮圧される顛末は、はじめから当然の帰結だった。

作者は、信者をどうイメージしていたのだろうか。
最盛時、二代教主の行徳仁二郎の非凡な事業能力を得て、急速に組織を拡大し、信者100万を呼号する大教団に発展した昭和初期のころ、様々な立場の信者層は以下の六種に分かれるという。

「・・・・第一は、開祖まさの人格に惹かれ、あるいは開祖が神がかり状態で行なった奇蹟によって救われたり、それを目撃して改宗し入信したりした一群の人々。もっとも素朴で、もっとも強い人間の絆で結ばれた信徒たちであり・・・・またほとんどは女性であるために・・・・
第二は、開祖の活躍がやや形をととのえはじめたころ、それを援助して集団帰依したはざま部落の人々や、同種の集団入信の人々。・・・・・
第三は、教主(仁二郎)とほぼ同世代の人々。教主の側近であるが・・・・今はそれぞれ各地で分教会を持っており、それゆえ教団の動向いかんでは裏切って独立する可能性をもつ人々である。・・・・
第四は、教主仁二郎の時代になってから入信した青年層、および女子青年層である。・・・・未組織労働者や農民、漁民から中小企業主にいたる幅ひろい層が含まれ・・・・・
第五は、教主が教団経営を合理化し、開祖のお筆先を体系化していく過程で、教主に共感し教主を援助した知識人層。青年層が宗教社会主義的な側面を実際活動に生かしているのに比して、この人々は政治主義的であり、国家社会主義的傾向やナショナリズムを代表している。もと学校教員や現役の軍人、もと神官職や政治運動の経験者が多く、信徒全体に占める比率はあまり大きくないが、教団の宣教活動にはかかせない一群の人々である・・・・・
そしてその他に、形式上、教団の職名はもつけれど必ずしも教義を信じているわけではない、好意的賛同者たちがいる。医師や弁護士、国学者や宗教学者の一群が顧問として名をつらねており・・・・・」
としている。

しかし二代教主の行徳仁二郎は弾圧を受けて長く獄中にあり、教主代理の長女阿礼はわずか20代の若さで8年の長きに渡り教主代理としての過重な任務に就かざるを得なかった。この非合法時代でも「かくれひのもと救霊会員」は40万とされている。

中心軸を欠いた教団はこの間に分裂衰退した。
長女阿礼は、九州地方で「びのもと」から分離独立し、折からの国家主義的な風潮に便乗した「皇国救世軍」の小窪教主の次男に嫁することとなった。「ひのもと救霊会」の「教主長女」という誇りを捨て、教団が生き残るためのいわば人身御供を自らに課したのだった。

しかし時流に迎合しただけの「皇国救世軍」の敗戦による破局とともに、無理な結婚生活も破綻した。

戦後に出戻りで神部に帰った阿礼が千葉の暗い暴挙に同調するのは、彼女自身がすでに人生に絶望していたからでもある。敗戦と人生の蹉跌という要素が、千葉のニヒリズムと化合して暗い徒花を咲かせたというわけだ。

教団ではやむなく唯一の妹阿貴がわずか24歳で「継主」に就任するが、これは第3代教主誕生までのいわば経過措置。千葉潔とその仲間である旧制三校の出身者たちが、学生運動よろしく新しいグループとして「継主」側近に集まり、参謀役の「企画院」を編成して教団運営を仕切る。
これは全共闘世代の自己イメージを投影したのだろう。
その千葉には「悪魔的な意図」が隠されていたのだった。

「企画院」を率いた千葉潔と、行徳阿礼が謀り、これを戦前からの残党だった足利正(最盛期信者の第4層)が暗黙裡に同調して潔の教主簒奪が実現した。
そして多くの信者が偽の新教主にやすやすと騙され、まるで羊の群れのように追従し、武力蜂起に至るというシナリオには、やはり作り物のようでリアリティーが乏しい。
千葉が教主になって起した「奇蹟」も、一種の暗示に信者が嵌っただけのようにみえる。これではほとんど子供だましの詐欺に見える。もしも一時はだまされても詐欺は長続きしない。

小説「邪宗門」は二代教祖の行徳仁二郎とその長女阿礼、次女阿貴、千葉潔を中心に、その縁故の人々や一部の教団幹部の動向が叙述の中心だ。つまりわずかな登場人物の内輪の物語がメインだ。
しかし他の一般信者は、物言わぬ羊の群なのだろうか。信者の階層を表層的に分類してみせたのは、そうした弱点を作者も自覚していたからだろうか。

私自身はこう考える。

「ひのもと」の信徒は、もともとが素朴な村落生活を営む農民信徒が大多数であって、彼らが開祖の神がかかりに期待したのは貧困、家庭不和、病気、自然災害などに直面した切実な救いだった。それは「信仰即生活」という言葉に集約される。
それが上記信者の第1層、2層に相当する。そして一番強固な信者層を構成しているはずだ。たとえ弾圧され、非合法化されても信仰体験の炎が根絶やしにならないのは、この層が生きているからでもある。しかし、それはいわゆる「政治意識」や「社会意識」に必ずしも発展するとは限らない。

教団草創期を担った貧しい農民層が中心だが、「体制変革」などというイデオロギー志向とはそもそも発想が異なる。むしろ「生活保守的」な信者が大多数だから、極端な政治行動には二の足を踏むのが普通だろう。
自分たちの信仰が、世直し、立て替えに繋がるという確信(いわゆる世直し)は他の世代には負けないが、そのユートピアがそのままの形でただちに政治的欲求に繋がるとは考えにくい。まずは当面の生活や不遇が克服されたら良いのであって、政治選択もそのレベルから二次的に発想される。
むしろ、労働運動や政治活動では掬いきれなかったからこそ、信仰の世界に入った人々が多いと思う
学問に限界を感じた社会学者や左翼転向者が、自らの革命幻想の破綻を感じて、教団にないものねだりの期待をした理由の一端もここにあるだろう。だから、それはいわば「片想い」になりやすい。机上の観念と大衆生活の現実の間に大きな落差を発見することだろう。

したがって千葉潔らが画策したような、国家体制とまともに全面衝突するような行動に、ただちに追従する可能性はとても低いと思う。王朝末期の中国の農民反乱や米騒動も、社会全体の「変革プログラム」に沿って蜂起したのではない。追い詰められた末の集団的「衝動」なのだろう。

もういちど作者自身の跋文に戻ろう

「・・・・発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった。表題を『邪宗門』と銘打ったのも、むしろ世人から邪宗と目されるかぎりにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。 ・・・・ ここに描いたものは、あくまで『さもありなむ、さもあらざりしならむ』虚実皮膜の間の思念であり、事件であり、人間関係である。・・・」

「世直し」「世の中の立て替え」を標榜する「お筆先」が開祖の教えだとしても、教団が大きくなると、国家体制との妥協を強いられるのがこれまでの宗教の歴史だった。そして一部の例外を除いてほとんどの教団が現実的な折り合いの道・・・・つまりは「保守」を選んだ。特に日本人は体制がまるごとひっくり返るような、根本的な社会変革を望むことは稀だと思う。

しかし作者は、それを「否定的に思考実験」してみたかったのだろう。
だが、さすがに抜け目なく、親友・吉田秀夫にこう述べさせている。

「・・・・・救霊会はあくまで地域集団であることにとどまり、資本家が牛耳ろうと共産主義者が主人になろうと、ひたすらに集中しようとするだろう国家権力に対する分散的な抵抗基体として、政治的には消極的な、しかし生活と精神の自由は断乎として売りわたすことのない団体として活躍するように・・・」
生きる道も排除はしていない。

むしろ、こちらのほうが多少のリアリティーがあると思える。
つまり時代や社会とは距離を置いて、自分たちだけの精神世界に閉じるという生き残り方を示唆しているのだろう。実際、直接的な政治活動からは手を引いたという教団もある。

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