高橋和巳「邪宗門」(3)  昭和の「闇」

高橋和巳が創作した「ひのもと救霊会」の宗教的な原点には、開祖である行徳まさの「神がかり体験」がある。その「神がかり」を促した動機には、彼女の言語に絶する悲惨な人生があった。

彼女を含め、当時の農家の貧困は、明治中期の日本がとった松方財政によるデフレ政策が一因だった。このため米をはじめとする農産物価格が暴落し、やむなく土地を手放して小作人に転落したり、都会に貧民として流れ込む農民が多数発生したという。
この時期には全国各地で、追い詰められた農民の大規模で絶望的な暴動事件も頻発した。
その犠牲のうえに「富国強兵」策が強行されたのだという。

行徳まさの身に起きた不幸の悲惨さは、今日では想像しがたい。つい90年ほど前までの、いわば「日本社会の底辺」のリアルな実像なのだろう。

・・・・・安政2年生まれの行徳まさは、この時代の日本のどこにでもいそうな平凡な農婦だった。

家庭の不和と絶望的な貧窮に追い詰められた挙句に、

「・・・・・彼女は6つになる児をつれて山中をさまよい、虫を食い蛇をとらえて食い、そして次に山から降りてきた時、子供の姿はなく、目をらんらんと輝かせて、何かわけのわからぬことを叫びながら町を歩いた。もっとも常時錯乱状態にあったのではない。平静にもどると、彼女は遊里に売り飛ばされた長女や質屋にあずけられた長男や、姉にあずけた次男、子守に出した次女・・・・とたずね歩いた。だが、遊里の長女は母に会おうとはせず、長男は奉公先から出征して日清戦争で死に、次男は姉の家を飛びだして行方不明になり、次女は奉公先の虐待にたえず縊死していた。・・・・」
という地獄絵図。

やがて
「・・・・・半狂乱の女がつぎつぎと(寺社を)叩いてまわる姿がみられた。病を治してくれというのでもなく、自分が救われたいというのでもなく、奇妙な質問を執拗に発し続けるのである。6人の子を生んで、4人に先立たれ、残った子にも背かれた母親の命になんの意味があるのだろうか、と。なぜ長男は戦死したのか。なぜ長女は娼婦になり病毒におかされて死んだのか。なぜ次男は行方知れずになったのか。なぜ次女は地主の納屋で首をくくったのか。なぜ三女は末子を餓死させたのか。その三女は山でどうなったのかを彼女は言わなかったが、それよりそんな奇妙な質問をまともに答えてやる者はだれもいなかった。宗教家のところだけでなく、教育者や社会事業家、あるいは政党の演説会にも、その乞食女は現われて、弁士に向かって、とつとつと、しかしある迫力をもった声で同じことを問いかけるのだ・・・・・・」

21世紀に生きる我々には、ややどぎつい描写かもしれないが、こうした生存ラインの境界線上を彷徨せざるを得なかった民衆は、これまでの人間の歴史に数え切れないくらいたくさんいたのだろうと思う。
だから中世の「地獄草子」や「餓鬼草子」は決して空想の産物ではないのだろう。生々しい迫力がある。

天明の飢饉

そして今も、世界を広く見回せば、それが決して昔話とは言えないような、まさに地獄絵図さながらの状況下で呻吟している人々は多いと思う。
貧困や自然災害だけではない。最近の中東やアフリカで見られるように、長期化した内戦で大量に発生した難民の余りにも惨めな姿は、あきらかに「人災」であり、それはただいま同時進行の出来事だ。

まるで民族大移動を彷彿させるような、海を渡る危険な「逃避行」。どれほどの恐怖と苦しみだろうか。自分だったら耐えられない。

不安や絶望が深ければ深いほど、信仰が先鋭化し、追い詰められたあげくの過激な行動に走る人も出るだろう。そして、なかには精神の変調を起こす人がいたとしても、少しも不思議ではない。
これを力だけで抑え込もうとしても、やはり限界があると思う。一方的に「壁」を作って追い散らすだけで良いとも思えない。

本文にもどろう。
「・・・・やがてふたたび開祖(まさ)は山に入って姿を消し、今度あらわれたときには、怪しく人をひきこむ抑揚で、人の悩みを射当て、人の病を癒す祈祷師となっていた。・・・・・」

開祖まさの行った神がかりの祈祷や身替わりの法については、具体的な記述は少ないが、私は子どもの頃に怖いもの見たさで瞥見した、あの男性の行者を思い出す。
そして実は、仏教やキリスト教のような高度で普遍的な高等宗教でも、それはお化粧を施された今日の姿であって、そもそもの原点には、こうした土俗的な神秘体験や奇蹟があったのではないかと思う。
そこに信仰のある種、「威力」があるはずだ。理屈は後からついてくる。何よりも差し迫った救済力が原点なのだろう。

いずれにせよ、自然災害や社会矛盾のしわ寄せを一番被る最も弱い立場の人々に、温かい救いや蘇生の癒し、そして前途への希望と確信を与える営為が宗教の原点なのだろう。それは生身の生活のなかに息づく。それを「ご利益信心」と、高みから冷笑するのは一種の「傲慢」ではないだろうか。

もちろん、歴史の試練に堪えて生き残った普遍宗教は、ただたんに土俗性に閉じこもるのではなくて、深い思想性を開拓し、質的に洗練された姿なのだろう。それでもなおかつ、核心には生身の人間の救いに直結した熱く純粋な「信仰の炎」を燃やしているのではないだろうか。
日本では江戸時代の寺請け制度によって教団が「身分保障」されたために、宗教としての救済力を喪失した。それが伝統教団の低迷の原因だった、と学んだおぼえがある。政治的には体制の補完装置に甘んじて堕落した。

小説「邪宗門」は、昭和初期という暗い世相の日本を舞台に発生した、想像上の教団の運命を描いたものといえる。

著者は、北京都の大本教を基本のモデルに創作したそうだが、その他の幕末・明治期に登場した新興宗教の発生過程や、専門である中国史上の、信仰を纏う農民暴動などのイメージも考えあわせて創作したのだろう。
だから宗教とはいっても、かつて国家護持を担った仏教のような、整然たる体系化された教義は伺われない。若干の末法思想を色づけしてはいるけれども、従来からひろく民間にあった土俗的で素朴な自然崇拝や、超常体験などを構成要素にしているようだ。
従って、新興宗教の雑多な神概念や山岳信仰の修行などの要素も混交している。

主に戦後に登場した都市型の新宗教とは違って「ひのもと救霊会」は、北京都という農山村地域を基盤に発生した地方の教団だった。当時、国民の60パーセント以上が農民だった。

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だからこそ、民間に深く根ざしているともいえるが、そこには不合理な「迷信」とみなされるような特徴もあるのだろう。当時の支配的な社会通念や常識、あるいは道徳観念(それらがすべて超時代的に正しいとはかぎらないが)からみて、許容範囲を逸脱しているとみなされやすかった。そこを意図的に衝こうと狙う側からは、容易く「淫し邪教」のレッテルを貼られ攻撃される弱点になった。

その場合、ことに大衆の劣情におもねる興味本位のマスコミが悪宣伝を垂れ流す。そのうえに「異端」「少数派」に対する地域社会の偏見や差別の圧力が増幅する。
最初期の「ひのもと救霊会」に集団入信した人々のなかには「新平民」の人々が多かった。それが排除の感情をなおさら煽った。新興宗教の登場舞台が多くの場合いちばん弱い立場の人々のなかからであることの証さなのだ。
こうしていったん「非国民」「反社会」などといわれない烙印を押され、やがて教団はもとより信者個人も容赦なく厳しい敵意と批難に晒されゆく有様が描かれている。

「ひのもと救霊会」は、すでに故人となっていた開祖・行徳まさと現教主の行徳仁二郎の2代、わずか30年余で急拡大した教団だった。そしてかつての封建領主の城郭跡を買い取って、そこに教団本部の大規模な神殿を建立するまでに発展していた。

開祖まさの神秘体験や加持祈祷だけにたよる宗教活動のあいだは、まだいわゆる「拝み屋」の段階だったが、これを後継した第二代の行徳仁二郎の時代には名実共に「教団」へと発展したのだった。それは仁二郎の非凡な事業経営能力が発揮されたからだった。
確かに彼は世俗に通じ、多彩にして融通無碍、変幻自在の姿を演じる組織者のように描かれている。

仁二郎は、青年時代に家出して10年に渡る詳細不明の流浪生活を経たらしい。その素性にはある種いかがわしさがあるが、それを曖昧に糊塗して粉飾し、逆に自己の「神秘化」に利用するという才知を持っているようにも見える。
事にあたっての決断と実行力に恵まれた男は、同時に人情の機微に通じた人心収攬術を備えた人物でもあった。
つまり、典型的な「新興宗教」のカリスマ指導者らしく描かれている。それはある面で「詐欺師」すれすれのキャラクターでもあった。

信徒数100万を呼号する大教団は、当然ながら治安当局の警戒心を大いに刺激したのだった。権力の側に立つものの思いあがった「お上」意識を脅かしたのだろう。
ましてや折からの世界不況のなか、戦争への道をひた走るための国家総動員体制を一層強化せねばならないご時世にあった。

民間から立ち上がった新興宗教で、個人の救済に留まらず開祖以来「世直し」や「立て替え」を唱えて急膨張した教団は、出方しだいでは「国体」を脅かす危険性を疑われた。
一般の大衆信者だけでなく、教主周辺のブレーンには帝国大学の教壇にいた学者、医師などのインテリ、士官学校出身の軍人もいて、折からの「昭和維新」とも気脈を通じている気配もある。病院を経営し、信者相互の協同による工場生産現場を構え、場合によっては信者の多い職場での労働争議にも関与するといった、社会的影響力を行使できる存在にまで成長していた。

「ひのもと救霊会」は、こうして治安維持を司る特高の過酷な弾圧を蒙ることとなった。
昭和6年に2回目の大弾圧を受けた教団は、不敬罪、治安維持法違反などを問われ、教主行徳仁二郎と幹部、地区司祭(都道府県の支部長格)ら9名が検挙された。
そして開祖まさの「神がかり」が生んだ口述の聖典「お筆先」の文言が国体に沿わないとされた。やむなくその一部改竄を獄中の仁二郎自身が当局に妥協して許容し、事実上「転向」してしまったのだった。
「お筆先」は絶対帰依の信仰対象であるだけに、教団の存立基盤を揺るがす深刻な事態であった。

こうしたとき、父仁二郎が獄中で「転んだ」とは知らない長女阿礼17歳やその妹阿貴のもとに、身元不明の14歳の少年・千葉潔が転がり込んでくるところから物語は始まる。

「・・・・この(ひのもと救霊会が所在する)町は元来、絹織物の産地として知られ、木材をはじめこの地方の集散地として発展した。・・・・だが、たび重なる不幸な事件(弾圧)のために、・・・・(今は)まったく活気が」ない。

「・・・不幸の第一は昨年、つまり昭和5年の全国的な豊作飢饉だった。・・・・・昨年、米の収穫高の予想が、過去5ヵ年の平均の一割を上回る豊作だと発表されたのをきっかけに、米価が大暴落をはじめ、・・・・失業して帰省した働き手を無為にかかえこんで(ひのもと救霊会を含む)近郊の農村はよどんだように動かなくなった。・・・・」

ストーリーは、国家権力の弾圧に呻吟し動揺、やがて衰退しゆく「ひのもと救霊会」の人々の姿を描く。とともに、心に深い「原罪」を背負っていながらとうとう最後まで信仰を持ち得なかった信者2世の千葉潔が、それにもかかわらずある目的をもって3代教主を「僭称」し、やがて教団全体を破滅的な武装蜂起に導く滅びの顛末だった。

前途の希望のなさを暗示するような出だしで、さらに読み進むとしばしば心が塞ぐような救いのなさを感じる展開だ。それは未曾有の敗戦へと向う、昭和初期の日本社会の閉塞感とも照応しているからかもしれない。

物語は本筋の周辺に多角的な社会テーマを啓蒙的に網羅している。当時の読者の多くが大学生など若い世代であったことを意識しているのだろうが、今日からみても、ひとつひとつが思考実験に値するテーマだと思った。

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