高橋和巳「邪宗門」(2)  民衆のアヘン

 本サイトのホームページで紹介した話。
 たぶん、小学校の6年生の頃だったか、我が家のすぐ裏隣に、不思議な初老の男性がひとりで住んでいた。

そこは鳩小屋のような外見の狭い住居で、金網のようなものが軒下に張り巡らされていて、戸外と室内とを分けていた。その人は金網の内側から、日がな一日じっと外を凝視してじっと座っていることが多かったように思う。
白髪交じりで伸び放題の長髪を後ろに束ね、からだは小太り、眼は猛禽類のように炯々として鋭かった。
部屋は日中でもうす暗く、汗臭いすえた匂いがした。

この「変なおじさん」の奇怪な話を聞くのが面白いので、学校が終わった後よく遊びに行ったものだ。子供らしい怖いもの見たさだったのだろう。

話の内容はあらかた忘れてしまったが、このおじさんは山奥で修行に励んで神通力のようなものを得たのだという。今から思えば、いわゆる山岳宗教の「修験者」(行者)だったのかもしれない。

yamabusi_sasie
山伏

 その話によると、人の病の原因は悪霊(悪い「気」か)のしわざで、その悪霊を取り除く術を身につけたのだという。
見ていると、人の病気を治すため患部に掌をあて、半眼で一心になにかを念じる。呪文を唱えていたかもしれない。すると反対側の手を肘からすっぽり包んでいるビニール袋が次第に膨らんでゆくのだ。病人の患部にあてている掌から悪霊が吸い取られて反対側のビニール袋に移動するのだ。
悪霊が患部に当てている掌からおじさんの腕を通り両肩、そして背中を経由して、反対側の手を包むビニール袋に移るのだという。不思議なことに、確かにその黒いビニール袋が、時間をかけてゆっくり膨らんでいくのだ。
これは何回も実際に見た。

このとき冷気となって悪霊がおじさんの背中を通過するので、本人はその冷たさでぞくぞくすると言っていた。私の目には何もみえないのだが、おじさんは、ありありと感じているようだった。何回観察しても、子供だましのトリックなのか、本当に起きていることなのか、判断はつかない。子供心にも「インチキ」ではないかと疑ったが、どうしてもごまかしは発見できなかった。膨らんだビニール袋は「悪霊」を閉じ込めたからだという。
部屋の中には、その膨らんだビニール袋が無造作にいくつか転がっていた。
あの袋がその後どう処理されたのか、記憶にない。不思議な光景だった。

この人は近くの銭湯でもよく見かけたが、その場で出会った見知らぬ他人にいきなり言葉をかける癖があった。そして、その相手の人の状態をぱっと言い表すのだ。いま何を考えているのか、あるいは何に心を奪われているのか、何か困ったことがあるのか、好きな食べ物、来歴など、その場で言い当てるので、気持悪がられているような様子だった。
私も脱衣場で親子でいたとき、「あんたのお父さんは頭がいい人だなぁ」と言われて、父はまんざらでもないような様子だったことが、今思い出しても微笑ましい。お世辞を言うようなおじさんではないが、なにの根拠もなく断言する。

 ある日遊びに行くと、見知らぬ白髪老齢の女性が、くだんのおじさんが住む「鳩小屋」の前の、小さな家庭菜園風の庭を箒で掃除していた。
見かけぬご老人なので、何をしているのかと思って見ていたからだろう、子どもの私に向かって
「・・・お陰で病気を治してもらったから、せめてものお礼に掃除をさせてもらっているのよ」
というようなことを話しかけてきた。和服姿で、品の良い老婆だったことを記憶している。
おじさんの「鳩小屋」の隣は、キリスト教の教会で、そこの牧師の娘は中学校の同級生だった。

この「修験者」(行者)のおじさんはある時、自分はいずれ東京の国会議事堂に出て国民向けに大演説することになっているのだと、真顔で私たち子どもに語っていた。

あれから半世紀以上は経たから、もうその「修験者」もこの世にはいまい。(あるいは神通力で、今もどこかに生存しているのだろうか)
もちろん、国会で演説などはしていないに違いない。

 高橋和巳が「邪宗門」を創作するに当たって、大本教の創始者出口なおや、教祖の出口王仁三郎などの「霊能者」をモデルにしていることは良く知られている。

出口なおは、現在の京都府福知山市に天保年間に生まれた。
極端な貧困と家庭の不幸に苦しんだあげく、明治25年頃に「神がかり」になって、さまざまな宗教や行遍歴の後に、「お筆先」と呼ばれる不思議な言葉を多数残したという。

「神がかり」という言葉で、子どもの頃に見た、あの行者を思い出した。

大本の信仰は、開祖なおの神がかり体験がひとつの原点なのだろうと思う。その後継者になった出口王三郎という人は、様々な人生遍歴を積んだスケールの大きな人物だったようで、正規の神道儀礼も学んだらしい。そしてなおと出会い、末娘と結婚した。なおの教えは、この多彩な能力を持つ義理の息子を得て、次第に教団化され急速に発展したようだ。
教団自身の説明によると

「・・・・大正初年における大本は、信徒数1000人にみたない綾部(京都府)の一地方教団にすぎなかった。しかし、第一次世界大戦後の変動期において、大本は異常なまでの成長をとげた。1917年(大正6)年の1月に機関紙『神霊会』を発刊していらい、『大正維新』をスローガンとして、鎮魂帰神とはげしい予言・警告にもとづく強力な宣伝を展開した数年の間に、大本はめざましい躍進をとげ、その発展ぶりには目をみはるものがあった。・・・・」
(「大本事件史」 昭和45年8月刊)

「世直し」を標榜した大本の、教団発展を担った王仁三郎という人物は「邪宗門」では「ひのもと救霊会」の教主、「行徳仁二郎」のモデルとなった。

nouson
東北農村の飢饉

 江戸時代の末から明治期に至る激しい社会変動や、自然災害、飢饉、疫病の発生などで塗炭の苦しみにあった民衆の願いに応じて、黒住教、金光教、天理教、丸山教などの新興宗教が続々登場して多くの信者を得たことはよく知られている。
幕藩体制の権力構造に組み込まれ、体制に保障されて既成化してしまった伝統教団が、生きた宗教としての救済力を失っていたからでもあるのだろう。

いわゆる専門家の研究態度は、宗教を社会現象として犀利に分析しているのだろうが、信仰や呪術そのものの内容については用心深く立ち入らない。合理的な説明がつかないから扱いにくいのだろう。
宗教的な体験は、学問の対象とは別次元と考えられているのだろうと思う。小説「邪宗門」も信仰の内容には、あまり深い入りしてはいないと思う。

 いわゆる「啓蒙主義」は、合理的に説明のつかないことを、学問の世界からきれいに排除した。とくに西欧を模範とした明治以降は「いわしの頭も信心から」と揶揄する言葉があるように、宗教を非科学的な「迷信」とみなす傾向が強化された。だから高等教育を受けた知識人といわれる人々は、新興宗教を無智な民衆の「ご利益信仰」などと侮蔑することが多い。

こうした「科学的」な態度は、新興宗教の発展を社会現象のひとつとみなして、合理的な説明を試みるものの、やはり限界があると思う。主観的な「信仰」の内実は研究対象にならないからだろう。外形的な分析に留まっている。ちょうど波の動きを観察するだけでは、底にあるダイナミックな海流の動きそのものを把握するのが困難なように。
だから、なぜ新興宗教がかくも広汎な民衆の心をつかんだのかを、すっきり腑に落ちるような説明ができない。その分析は歴史の表層に留まるのだろう。

だが、「科学的合理主義」の限界が指摘されて久しい。
科学はすばらしく発展したが、逆にそのぶん宇宙や自然の不思議はより大きく深まっているといえるのではないだろうか。何よりも人間自身に潜む闇の解明もまだ端緒についたばかりとはいえないだろうか。
また、人生や社会は納得できない不合理に満ちているし、一瞬先のことも予測不能だから不安の種は尽きない。「大災害」がいつ自分を襲ってくるかわからない。だから「不安」を煽る詐欺商売が繁盛する。

科学は眼の前にある事実の「時系列的な因果関係」を精緻に説明できるが、なぜそうであるのか、という本質的な疑問にはまったく無力だ。hawは説明できてもwhyにはきちんと解答できないことのほうが多い。

以前、テレビでたまたま「大本教の弾圧事件」をテーマにした教養番組を興味深く見たことがあるが、弾圧された原因については分析が足りないようにも感じた。
うまく表現できないが、社会科学的な分析だけを拠り所としていては、信仰そのものの持つ生々しい「迫力」が捉えられないからではないだろうか。宗教現象を「客観視」する作業過程で何か大切なものがすっぽり抜け落ちる。

本来は信仰の対象である仏像を美術品として鑑賞する行為に似ている。わかったようで実はわからない。「鑑賞」と「信仰」はアプローチの方法が違うからだと思う。むしろ、「信仰」を避けるために「美術鑑賞」に逃げているのかもしれない。これが合理主義に「洗脳」されたな知的態度の限界なのかもしれない。

ダイナマイトで破壊された大本教の神殿
ダイナマイトで破壊された大本教の神殿

 公共の電波だから、信仰の内容まで立ち入ることには限界もあるだろう。つまらない難癖をつけるつもりはないが、宗教現象を理解するといってもせいぜい「さもありなん」という程度の理解に終わってしまう。
国家権力が血相を変えて弾圧しなければならなくなったほどの存在感を、なぜ新興宗教教団が持ったのか、よくわからない。

 実は人間にとって本当に切実な問題は、なまなましい生活実感のなかにあるだろう。生身の人生は「剥製品」を眺めているようなわけにはいかない。
信仰は血肉の通った当事者の事実体験だと思う。

こぜこの世に生まれ会わせたのか、なぜこんな苦しみにあうのか、というような存在論的な問いに対して「精子と卵子の合体が原因」とか「遺伝性疾患の発症」などと説明を受けても、根本的には得心がいかない。whyを解明するためには、客観性や抽象化を手段とする科学的態度だけでは説得力に限界がある。

生きることに困難を感じている人は、自らの腑にストンと落ちるような理由(いわれ)や、切実な救い(苦しみからの解放)を求めている。
だから合理主義が駆逐してきたはずの神話や伝説、物語の役割は大きい。そのなかにある、いわゆる「因縁話」も当事者には大事な場合があるのだろう。
宗教が説く世界では、偶然や例外はない。すべてが目に見えない必然の理の顕現とみる(実感する)のだろうと思う。
「苦しいときの神頼み」と揶揄されても、やはり最後は神仏に祈願する行為をバカにできない。「はやぶさが1」が軌道から消えたとき、最先端の科学者がすべての人事を尽くしたうえで、神社に祈願したというエピソードは興味深い。

優れた宗教経典がしばしば象徴的な「物語り」とか「詩文」であるのは、合理主義とは異なったレベルの文脈で宇宙と人生の存在理由や救済を説くための、かなり有効な表現だからなのかもしれない。それは理性よりも深い部分・・・つまり「魂」に直接差し込んでくる威力がある。ただし毒矢である場合もありそうだ。
「神がかり」と「狂気」とを区別することが難しい。

それが開祖のいわゆる「お筆先」に該当するのだろう。
そして、その解釈が教義に発展したのだろうと思われる。
高橋和巳は勃興する宗教勢力には、個人の救済にとどまらず広く「世直し」への強烈な志向性が顕現する場合があると指摘する。文字もまともに読み書きできないような庶民が強い信心への情熱を持って一体化(ある種の疑似家族化)した時、これを巨大な「体制変革」のエネルギーに汲み上げる組織家を登場させて思考実験をしてみた。
学生運動家たちの関心の所在も、ここにあったのだろうか。

幕末から明治、大正、昭和初期にかけての変動期に登場した様々な新興宗教は、時代の闇が深ければ深いほどに、苦悩する民衆の間で新鮮な「信仰の威力」を発揮したのだと思う。
それを「歴史の裏側」などと表現することは、やはり民衆を見下した態度になりかねないと思う。
表の「歴史」に載らないこうした「民衆の真実」は、社会科学的な分析手法だけでは十全に掬いきれない。むしろ、「不合理」というレッテルを張られて偏見や差別にさらされやすい。

 子どもの頃に見た、くだんの修験者のような話は昔の庶民の間ではもっと多かったのだろう。切実な悩みや苦しみのなかで、藁をもつかむ思いで拝んでもらったり、自ら祈祷してみたら、病が治ってしまったなどという「実体験」が本当にあったのだろう。だからこそ、新興宗教がこんなに大きくなったのだと、ひとまずはありのままに認めるほうが、よほど「合理的」な態度だと思う。そうしないと、こんなに隆盛した原因を、それこそ「科学的」に説明できない。
映画「自転車泥棒」にも、大戦直後のイタリアの貧困のなかで、いかがわしい占い師が登場していたが、決してすべての信者が「迷信」に嵌って騙されている、ということだけでもないようにも思う。

確かに、いかがわしい似非宗教や詐欺商法も多い。

俗悪週刊誌が、これは売れるとばかりに、鵜の目鷹の目で「邪教」を書き立てる。それが「ひのもと救霊会」の場合のように、当局側の意図的なネガティブ・キャンペーンに利用される。あるいはメディアが権力に「忖度」するのだろう。

子どもの頃に見た「修験者」の、摩訶不思議な呪術や洞察力、あるいは信心の威力のような、合理的に説明のつかない「効果」については、「ある」とも「ない」とも即断しないほうが適切な態度なのだろう。

左翼運動の理論的な根拠だった「マルクス・レーニン主義」という政治思想の大前提は「唯物論哲学」なので、「唯心論」の典型とみなされた「宗教」は、不合理な因縁話や因果論を説く「迷信」だと一律に見下げられていた。だから、宗教はもはや淘汰されるべき「過去の遺物」に過ぎないという考えが当時の学生一般の通念だった。
しかもそれは、現実の階級矛盾からしばしば民衆の関心を彼岸の世界にそらす「反動的な装置」・・・・つまり「阿片」だと、よく糾弾されていたと思う。

マルクスは「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、
「・・・宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と指摘した。
小説「邪宗門」でも第14章「四面楚歌」に典型的なマルクシストの批判が記されている
「・・・・・中国の王朝交替の歴史が教示するごとく、黄巾の乱、白蓮教徒の乱、さらには太平天国など、道教、仏教、キリスト教などの宗教家に指導された百姓一揆は、それが何ほどかの成功をおさめた際にも、遂に社会経済史的な何らの変革をもたらしえないことは、歴史がこれを証明する。いっさいの宗教は、これが宗教であるかぎりにおいて、被搾取者に忍従を教え、結局は権力者と取りひきして私腹をこやす以外のなにごとをもなしえない。民衆の憤激を組織化するかにみえてその方向をそらせ、教化するかにみえて愚蒙をおしつけるもの━それは宗教である・・・」
この批判は、確かに現在でも相応に説得力があるとは思う。

ヘーゲル法批判

 無知蒙昧の「民草」は意識が低いので、反動装置である宗教にだまされるのだ。まずは目覚めた「前衛党」が先頭に立って革命を指導するのだ、というような選良意識が底流にある。

しかし、個人の救済に留まらず広く「世直し」「立て替え」を果敢に唱えて急拡大する新興教団の勢いは、既存の体制を根柢から揺るがすパワーを持っている。大本教が過酷で大規模な弾圧を受けた原因も、ここにあったようだ。あの頃流行の学生運動など足元にも及ばない。
それは広範な民衆の生存に深く根を下ろして活力を汲み上げるからだろう。

.東大安田講堂事件jpg
東大安田講堂事件

小説「邪宗門」が朝日ジャーナルに掲載されていた頃、学生の間では「唯物論」が優勢だった。
にもかかわらず、この小説はなぜか当時の多くの活動家学生から熱心に読まれ、議論されていたのも興味深い現象だった。

 しかし、学生の間で流行した「史的唯物論」は所詮「流行」「スローガン」の域を出ず、やがてあっさりとキャンパスから退潮した。そして活動学生のなかには見事な「モーレツ社員」に「変身」した人が多かった。
やがて「マルクス・レーニン主義の総本山」ソ連は崩壊消滅し、実利を大切にする中国大陸の人々は「社会主義市場経済」などという論理矛盾を、恬として恥じない「おとな」の経済大国になった。

 いっぽう「宗教」は今もなお、しばしば世界秩序を揺るがすパワープレーヤーであり続けているのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA