ゾルゲの日本研究(7)・・・・「日本の膨張」

リヒャルト・ゾルゲはドイツの「地政学雑誌」1939年8月号に「日本の膨張」という題名で、興味深い論考を寄稿している。

旧ソ連赤軍第4部のスパイという正体を隠して、巧妙にもナチス党員の資格を持つ、日本駐在のジャーナリスト、という仮面の立場での発表だった。この記事は、日本の大陸侵略の歴史的な経過を古代にまで遡って、当時のドイツ人に分かりやすく紹介した内容だったから、発表当時のドイツの国内事情を前提にして読み解くべきだろう。

ヒトラー

その6年前の1933年(昭和8年)、ちょうどゾルゲが日本に「派遣されて」来たまさにその年にヒトラーがドイツ首相に就任、やがてナチスの一党独裁が確立した。同年アメリカではルーズベルトが大統領に就任してニューディール政策が開始された。世界不況からの脱却が各国の主要な課題だった。国共内戦の大陸では翌年に中国共産党の「大長征」が始まり、ソ連では世界革命から一国社会主義への路線変更のなか、スターリンによる「大粛清」が始まった年とされる。

ナチス・ドイツは35年に再軍備を宣言、37年には日独伊防共協定を結び、38年にオーストリアを併合した。そして翌年の39年9月にポーランドを電撃的に侵攻して第2次世界大戦が始まった。その直前の8月末には独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせた。

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ポーランド侵攻

大戦直前の狂熱的なナチスブームがドイツ中に沸騰していた頃、「同盟国」日本に駐在していたドイツ国籍のジャーナリストとして、ドイツの雑誌に実名で発表されたのだった。

冒頭でゾルゲはまず日本の「膨張」の特徴を端的に記している。

「上古、中世、近世の日本の膨張の目的がいずれも同一であることは驚くべきことである。その上、世界歴史上比類の無い一様性を有しているとも言えると思う。・・・・このように膨張せんとする努力がすべて一様であるのは、原料資源に乏しく、常に天災に襲われてきた、空間的に息苦しいほど狭小な島々から――比較的近くにあってあらゆる資源のありそうな広大な大陸へ発展しようとした衝動(いな、『逃走』とも言えるかもしれない)の現われである。そして東亜大陸の北部にあるシベリアは、日本人にとって堪えられないような気候事情のために、少なくとも今日までは日本列島のすぐ前にある朝鮮と中国へ主力が注がれた。・・・・・」(ゾルゲの見た日本 「日本の膨張」127~8ページ)
日本からの「逃走」という面白い表現も、ある意味で一面を衝いているかもしれない。世界を股にかけて生きてきたゾルゲには、日本は「息苦しいほど狭小な」島国に過ぎなかったのだろうか。

父に教えてもらった合言葉だが「狭い日本にゃ住み飽きた、支那にゃ四億の民が待つ」という、まことに手前勝手な言葉があったのだそうだ。
侵略を受けた側には、迷惑この上もない。

「・・・・このようにもっぱら大陸に向かって進出することは島国の国民にとっては驚くべきことである。・・・・中国大陸の有する巨大な地域が過去においても現在においても日本の膨張の第一目標である・・・」(同128~9ページ)
と述べているのは、同じ島国でありながら大陸侵攻ではなくて海洋帝国として、七つの海に覇権を拡張した大英帝国との違いを念頭にしたのだろう。

まず、古代における日本の侵略の動機については
「・・・日本人のこのような意外な膨張意志の動機は容易に理解される。日本の支配権を得ようとした大和族は、間もなく次のようなことを認識したのである。すなわち大和民族の敵、特に九州にいる敵が経済的、技術的、文化的に朝鮮と結んでいることである。そしてこの連絡を断ち切って・・・・・初めて、国内の敵の抵抗を鎮圧することができたのである。」(131ページ)
これは日本書紀の6世紀中葉の「磐井の乱」などを指しているのだろうか。日本国内での支配権を確立するための対外戦争であると同時に、
「アジア大陸の一部である中国と朝鮮は富や天然資源や高度の技術、知識の点で」豊かな先進文明地域であったので、神宮皇后の「朝鮮征伐」(今日では史実とはみなされていない)を紹介しながら、その略奪的性格を指摘している。

更に、その延長線上で朝鮮半島を巡る覇権戦争であった663年の白村江の戦いについて
「・・・・日本の侵略者たちは663年に朝鮮の連合軍と再び統合された中国軍とによって陸に海に惨敗したのである。」(同130ページ)
が、軍事的には失敗に帰したものの、経済、技術、文化の面では先進文物を取り込む契機となった、と解説している。

日華事変
日華事変

こうした古代からの日本の大陸への直線的な膨張運動は秀吉の朝鮮侵略にもつながり、日本の伝統的で特殊な軍事事情を反映していて、その傾向性は今日(ゾルゲの時代)まで一貫しているという。

「・・・この最初の膨張運動に参加したの者は当時の――そして『今日までも』と言いたい誘惑を感ずるのであるが――大和部族の戦士すなわち陸軍であった。当時日本には海軍がなかったのである。」
という観察は面白い指摘だと思う。

島国でありながら英国のような海洋帝国を目指さなかった日本は、もっぱら半島を経由して先進文物や資源を求めて朝鮮、中国大陸への略奪的侵略を繰り返して来た、ということだろう。その牽引力は伝統的に「大和部族の戦士=陸軍」であったという。
古代、中世の日本の大陸侵攻はしばしば海軍力の不在もしくは決定的な不足のために、その侵略計画が水泡に帰したことをゾルゲは指摘している。

ゾルゲは昭和の陸軍の生態に古代大和朝廷以来の朝鮮半島、中国大陸への略奪的侵略の「伝統」を見ていたのだ。外国人らしい俯瞰的な視点だと思う。日本人自身が考えると、どうしても日本史の細かな時代区分に捕らわれるので、こうした西欧人の見方は新鮮に映る。

従って日清、日露戦争もまた主として朝鮮の単独支配権を獲得するための覇権争いであり、その目的は1910年の朝鮮併合によって実現された。そして、
「1904年から1905年にかけての『ロシア』との戦争によって初めて支那大陸への侵攻に成功したのである。いわゆる関東州租借地が成立し、大連から現在の長春に至るまでの鉄道付嘱地が日本の勢力下に置かれた。かくのごとくにして、満州はその後にわたり自動的に日本の中国をめざす膨張の出発点となったのである。」(同136ページ)

この時、第2次大戦中のドイツを含む西欧では、おそらく今後日本が北進するのか、中国大陸に本格侵攻するのか、あるいはまたインドシナ半島や南洋諸島などへの南進をめざすのか、が大きな関心だったのだろう。

ゾルゲは確信的に述べている
「・・・・日本は首尾一貫して中国本土へ進出し、中国全土の単独支配に移行したのである。・・・・・1937年7月に勃発した中国制圧を目的とする大戦争の基礎がすえられたのである。・・・・・」(同138ページ)
これはソ連のスパイとしての、ゾルゲの諜報活動の主題に対する回答でもあった。

こうしてゾルゲは、日本の膨張の特色を以下のとおりにまとめている。

「・・・・前述のごとく歴史的に見てくると、日本は『北方』『南方』あるいはその他の『いきあたりばったりの』方向へも膨張がないことがわかるだろう。今日までのところを見ると、日本の進出の方向、あるいは『島国からの逃走』に対しての決定的な要因となったのは近接していること、大陸であること、相手の政治上軍事上の勢力が弱かったことである。すなわち実際のところを言えば、これは中国に対する膨張なのである。この際、朝鮮は中国の付属と見なされている。・・・・日本の強力な拡張の主要な集中はここ数年は中国に集中され、中国に拘束されるであろう。・・・」(同138ページから139)

確かに、2年後のアメリカとの戦争もまた、本質的には中国をめぐる戦いであった。日本は広大な中国大陸に足を取られ私大に追い詰められた。それもまた「大和部族の戦士⇒陸軍」の伝統に連綿とつながる略奪的侵略の帰結であったということになるのだろう。

真珠湾攻撃
無謀な戦争の始まり・・・・真珠湾攻撃

「・・・・かくのごとく日本は中国に重点を置いているので、日本の膨張からは『植民地拡張』という性格が取り除かれている。・・・・中国はあまりにも人口が多くまた文化的にも日本と同程度なので、日本は大陸に植民帝国を作ることはできない。・・・・日本は侵略者ではあるが決して植民者ではないのである。」(同139ページ)
という具合に日本の大陸侵略の性格を分析している。

西欧人のゾルゲから見て、日本と中国の文化程度がせいぜい同じレベルに過ぎないというクールな指摘も面白い。同じレベルだから「植民」ではなくて「略奪」の水準だとみなした。同時代の日本人のアジアに対するつまらない「優越感」など見下ろしているかのようだ。(軍部の傀儡国家であった満州帝国についての分析がないが、敢えて触れなかったのだろうか。)

次の一文は欧州における侵略戦争との違いに触れている。

「・・・・この事実はまた、日本の膨張を本来担当してきた人々によって制約されている。これらの担当者は欧州諸国家におけるごとく単に国家を利用する商業者か私経済者ではない。実際に侵略思想の決定的担当者は日本においては軍、さらに詳しく言えば陸軍である。それゆえにもっぱら膨張の方向を大陸に求め、膨張の目的も制約されている。」(139ページ)

最後の結びは難解だ
「・・・・軍部は軍需工業の原料を望み、戦略上の見地よりする膨張の限界を画しているのである。このように目標設定が制限されていることは日本の大陸膨張の強みでもあり、また弱味でもある。なぜならば概念としては『自給自足』と『戦略的要求』は厳に規定されているようであるが、実際には限界のない定義し難いものであるからである。それは『アジア大陸』という概念に際限がないのとおなじことである。」(同140ページ)
これはつまり西欧の帝国主義の場合は「私経済上の利得」がはっきり意識されるのに対して、大陸侵略の先導役ともいうべき日本陸軍にとって「私経済上の利得」は「膨張の悲しむべき副次現象にすぎない」(同ページ)であるために、その膨張に対する軍の限界が明確に意識されていない、ということになのだろう。なし崩しなのだ。だから宣戦布告のない大陸侵略の泥沼に足を取られるのだということになろう。
侵略行動に歯止めが効かない、ということを述べているのだろう。
確かに、「統帥権」を錦の御旗にする軍部の独断行動を追認するばかりの中央政府だった。

もしゾルゲの分析が正しいなら、体系的な植民地政策に疎い軍(特に陸軍)は、長期化する中国問題の解決を焦り、袋小路に行き詰まっていった。挙句に情緒の赴くまま無謀な対英米戦争にまで飛躍してあっけなく惨めな自滅を喫した、ということなのだろう。その奇怪な情念の妄想の行き着くところが「玉砕」や「特攻」という狂気を生んだのだろう。愚劣の極みだと思う。

学徒兵として嫌々戦場に出された父は、ため息交じりに、何度も「馬鹿な戦争だった」と述懐していた。「明治世代がムチャクチャしたから大正生まれは散々な被害にあった」と叔父も話してくれた。母は「私たちの青春は戦争の犠牲よ」と繰り返し言っていた。

ゾルゲの分析があの時代の実態を正しく反映しているとすれば、あの悲惨きわまりのない国策上の大失敗の責任の所在がどこにあるのか、おのずとその輪郭が見えてくるように思う。

学生時代に、中国や韓国はじめアジア各地の同世代の留学生たちから、「日本帝国主義の復活」というフレーズを、オウム返しのように何度も聞いた。一方的に言われて、気分の良いものではなかったが、侵略したのは事実だから、まずは向こう側から今の日本がどう見えるのか、にも冷静に思いを致すべきだろう。

岐阜大空襲
祖父母一家の地、岐阜大空襲

「軍人が傲慢だったのよ」
ふだん、歴史などまったく関心外だった母が、的確に指摘していた。

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