ゾルゲの日本研究(5)・・・・「日本の政治指導」

「日本の『明治維新』を諸手挙げて賞賛することはできない」
「近代日本が本当に立派な「お手本」なら、あんなに惨めな亡国の敗戦を招くはずはないだろう。漠然とした印象発言を許してもらえば、敗戦と外国による『軍事占領』によって、民族の文化的な連続性に深い断絶が刻みこまれたのかもしれない。その禍根は、未だに回復していないのかもしれないとすら思う。」
前回、私はそう記した。

映画「スパイ ゾルゲ」から
映画「スパイ ゾルゲ」から

いくら弱肉強食の「帝国主義」の時代とはいえ、本来は「国防のための装置」以上ではない軍部が、政治の支配を外れて独りよがりな「妄想」に身をゆだね、とどのつまり国を滅ぼしてしまった原因・・・・その統治機構における、制度的な欠陥を考察するとき、ゾルゲが1939年の「地政学雑誌」に発表した「日本の政治指導」はとても示唆に富んでいると思う。

ゾルゲはいう
「日本はイギリスやアメリカやフランスのような意味の民主主義ではない。現行の男子選挙権、国会の政党組織および日本議会の両院制度は、なるほどある程度の議会制度をあらわしてはいるが、それは決して『民主主義制度』と同義ではない。というのは、日本のこの議会制度の権利と義務は、議会が政務処理にたいして十分に統制することも、能動的に影響力を行使することも許されないほどに制限されているからである。日本の国会と、そこに代表を出している公衆は、けっして団結のための独自のイニシアティブを発揮することができず、国会がきわめて限られた範囲内でしか、審議、同意、または拒否の権能を持たず、独立の立法力をもたないことを、忘れるべきではない。さらに、どの政府も、議会にはまったく責任を負わず、天皇だけに責任を負うこと、対外政策や国防や国家官吏の任命のような決定的な領域が、国会の決定力をはなれたところにあり、それどころか内閣全体の任務範囲にさえも入っていないことも忘れるべきではない。それらの任務は、ほかの任務とあわせても、もっぱら天皇の特権にぞくするのであって・・・・」(ゾルゲの見た日本」(141ページ~142ページ)
同時代の日本人にはほとんど知らされることもなかったゾルゲの指摘だが、今日からみても、かなり当を得た分析だったのではないだろうかと思える。

こうした政治指導体制を産んだ明治憲法の性格について

「・・・西欧民主主義的な意味での発展を許していない日本憲法のすべての規定は、日本の統治制度を、立憲君主制よりも、絶対君主制に似たものとしている。というのは、日本的な原則によると、憲法は、一定の政治的機能を行使する権利主張を、なんら日本人民に与えていないからである。」(同142ページ)
からだという。
こんな欠陥品憲法がつい70年前頃まで「生きていた」ことも驚きだが、次にこの摩訶不思議な憲法(名前だけは、御大層な『大日本帝国憲法』)の定める最高権力者について

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明治憲法発布

「・・・・(主権者)天皇は、国家元首であるだけでなく、日本の再生神道の最高の祭祀であるだけでもない。彼は、この神道宗教の最高神の子孫でもあり、みずからが、全日本人の祖先崇拝にもとづく礼拝の対象になっている。・・・・政府と、天皇に忠誠な人民とは、『天皇は日本であり、日本天皇なくしては、日本人民も、日本国家もない』と言っている」(同143ページ)という、まったくもって不合理な体制だった。

現実社会を律する制度規範の淵源を尋ねてゆくと、究極的には不合理な「神話」にいきつくというのだから、途中で思考停止に陥ってしまう。
それをゾルゲは「全体的君主制」と名づけているが、元になるドイツ語がわからないので意味がよくわからない。

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伊藤博文

そもそもカテゴリーの異なる、それゆえに結合不能な「神話」と「現実政治」を強引に合体させることには無理があるので、「この君主制は、天皇の姿がすべての日常的なものの上に超然としていることを要求する」(同)という仕儀となる。これが「国体」なのだろうか。
ゾルゲの指摘が正しいならたぶん、この仕組みこそ伊藤博文はじめ「明治の元勲」たちの巧緻なのだろう。藩閥打倒を志向する自由民権運動の高まりを老獪に吸収して、自分たちが握っている事実上の権力を維持るための、いわばトリック装置だったのだろうか。実権の弱体な議会制度や天皇の補助機能に限定された内閣制度などは、そのための「偽装」品に近い。

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美濃部達吉

しかも、この欠陥憲法をなんとか「西洋の概念で解釈」しようと努力した美濃部説が否定され、その著書は禁止された。」(同10ページ)これは大正デモクラシーを象徴する「天皇機関説」が弾圧を受けたことを意味するのだろう。

ゾルゲは続ける
「それだから、天皇の名において行動し、国民の政治生活の実際上の諸任務を解決することになっている『受任者』の制度が必要となる」(同143ページ)
つまり、「受任者」こそが権力の「正体」であった。

明治以来、民族の運命が危殆にひんするとか、「受任者」が決断できないような例外的な国家事態の場合だけ天皇が判断を下す「御前会議」が開催された。それは従来6回しかなかった。「その他すべての重要案件の場合には、「受任者」の名において行動するだけである」(同143~4ページ)
「受任者」の実体は憲法上は内閣、軍首脳部および枢密院で、これ以外に憲法上の規定のない「元老」と内大臣が構成している。
しかもその活動は「帷幄のうちで」行われるが、多くは王政復古に決定的に協力した層の出身であるのだという。つまり明治維新で権力を握った支配層なのだろう。

「このように、日本の『全体的君主制』の実際の政治的意志形成は、いろいろの『受任機関』の、統一的ではない意志努力の一系列にわかれている。」(同144ページ)
「この『受任機関』の意志方向がまちまちであるため、いずれの層が優位を占めようというはっきりした意図を抱いて、相互の間ではげしい争いをおこすことがしばしばある。」(同145ページ)

昭和初期の日本政治がまるでダッチ・ロールのように迷走してゆく過程で統治能力が衰退し、その間隙をついて軍部が国民の不満を背景に政治を壟断し、ついには侵略戦争の道を転がり落ちた理由が、ゾルゲなりの文脈で解析されている。

この歪な「全体的君主制」はまさに
「・・・・それは実際のところ、独特な日本的作品である。・・・・」(同146ページ)と見事にくくっている。
なるほど、「全体的君主制」なる意味不明の訳文になる原因はここにあった。それは「独特な日本的作品」だからなのだった。

この分析が1939年に発表されていたとは驚きだ。ドイツ人向けの雑誌に、ドイツ語で発表されるだけで終わったことが悔やまれる。まずは日本人自身が日本語で読むべきだった。

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