たぶん中学1年のときではなかったかと記憶するのだけど、「自分は元特高だった」と自称されていたYという英語の先生がいた。
今思い出しても、元特高なのに英語の先生というのも面白いが、私たち戦後生まれの生徒は「特高」というものがどんなものかよく分からないので、好奇心で聞いていただけだった。
Y先生は「英語にはリズム感があるのだ」とおっしやって、机の上面を鞭みたいなもので叩きながら、リズムをとって「ジッシズ・ア・ペン」みたいな抑揚をつけた音調で発音練習を施された。
先生は確か頭髪が天然パーマで、元特高というだけあってなるほどいかつい相貌と鋭い眼光をされていたけど、普段は生徒に優しい教師であったと記憶する。お昼の給食も、私たち生徒とともに仲良く一緒に食べていた光景を思い出す。
ただし宿題をサボったり、授業中にいたずらをすると、丸い木の棒でふくらはぎを「ピシャリ」と叩く。これがなかなか上手くて、叩かれた跡が残らないのにとても痛い。先生は「殴り方」のうまさを自慢されていたが、あの棒は怖かった。なるほどこれが元特高なのかなと、感心したものだ。
学校での「体罰」など考えられない今日だろうが、私たちのころはもっとのんびりした田舎の学校生活だった。
Y先生は授業の合間に
「見ろ、日本語というのはこんなに遅れた後進国の言語だ。書くのにやたら時間のかかる漢字があって、その上にひらがな、かたかななんて七面倒な文字がある。整理できてないから複雑なだけだ。それにくらべると、英語はたった24文字で済む。とても合理的だ。この差で日本は戦争に負けたんだ。しっかり英語を勉強せい。」
みたいな話をされたことがあった。私は勉強が嫌いだったが、こんな雑談はよく覚えている。妙に感心したからだろう。
Y先生が本当に元特高だったのか、そして日本語がそんなに遅れた後進性の言語なのかは、私にはわからない。
ただ、戦時中の「特高」という言葉のニュアンスが、なんとなく具体的に想像できた。そして、戦争に負けた日本人がこの敗戦国をどう自己認識していたかが伺われる。
昭和16年10月、東条内閣発足のまさにその日に一斉摘発で逮捕されたゾルゲやそのグループも、おそらく相当酷い扱いを受けたのだろう。(ゾルゲたち外国人は警視庁外事課が取り調べた)
例えば、沖縄出身のアメリカ共産党員で画家の宮城與徳は取り調べの最中、2階の窓から飛び降り自殺を図ったものの、死ぬことができなくて結局すべてを自白した。密室の拷問には耐えられなかったからだろう。素朴で献身的な諜報員だったようだ。そこから芋づる式にグループ全員が摘発された。
映画の中で、宮城は尾崎秀実に共産党員になった理由を、アメリカでの東洋人差別に加えて、沖縄人であるために日本人からも差別されたからだと述べている場面がある。細かい点だが見逃せない。
沖縄問題は、今もなんら本質的な解決をしていない。ゾルゲの時代のだけの話ではない。
その尾崎も素っ裸にされて竹刀で滅多打ちに殴打される場面がある。この時代に「アカ」のレッテルを貼られて当局に捕まれば、恐ろしい拷問が待っていた。暗黒の軍国主義時代に「思想犯」「非国民」と断罪され、人道にもとる迫害を受けた人々の名誉と人権は回復しているのだろうか。
国家の過ちとして、正式に謝罪すべきではないだろうか。同胞に対してすらこんなに非道なことをした軍国主義がアジア・太平洋の人々に優しかったはずはない。
漫画「アドルフに告ぐ」では、共産主義者でなくても、日本の戦争政策に反対の意見を持つ教育者や自由・平和主義の文筆家たちが次々に激しい弾圧を受けた事実が描かれている。当局の過酷な追及から、中には自ら首を吊って自死する人々もいた。
戦前の昭和初期とは、そんな暗黒時代だったのだろう。
手塚治虫は「ガラスの地球を救え」でこう述べている。
「人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という国家による暴力が、すべて”正義”としてまかり通っていた時代が現実にあったことが、・・・・ついこの間の厳然たる事実だったのです・・・・」(光文社知恵の森文庫 48ページ」
手塚にとっては同時代の事実だった。
「ぼくたちは、この世の中が百八十度転換して、昨日までは”黒”だったものが、きょうは”白”と、国家によって簡単にすり替えられた現実を目のあたりにしている世代ですから、その恐怖をなんとしてでも伝えたかった。・・・」(同49ページ)
今の憲法で思想・信条の自由が明記されているということが、どれほど大切な意味を持つか改めて痛感する。ここはGHQに感謝しなくてはなるまい。押し付けだろうがなんだろうが、良いものは良いと割り切るべきだと思う。あんな国策上の大失敗をおかしたのは、ほかならぬ日本自身なのだから。
軍事独裁政権の苛酷な人権侵害は戦後世界にあってもアジア・アフリカ、中南米、中東でたくさんの事例がある。戦後日本では概ね戦中戦前のような事態は避けられた。あって当たり前の空気が欠乏してはじめてその大切さに気づくように、この憲法の理念をあたらおろそかにすることは、自分の首を絞めることになるだけだと思う。
手塚治虫の言葉を謙虚に受け止めたい。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
(日本国憲法第19条)
さらに、もし日本がソ連に占領されていたらどうなっただろうか。
それは、映画「戦場のピアニスト」や「カティンの森」で見たポーランドの運命に近いものになっていたのではないだろうか。つまり冷戦終了までは、それこそ窒息しそうな息苦しい全体主義の時代が長く続いていた可能性もある。
政治権力の奪取に偏った「革命思想」。モンスター化した権力意思は目的と手段をひっくり返す倒錯現象を生み、一番肝心な「人間」を見失った。かくて国家は悪魔的な「人間抑圧システム」へと変貌し、その自己を正当化するためにあらゆる「暴力」が猛威を振るった。
これが一皮剥いた共産主義の姿だろう。
冷戦終結は資本主義の勝利というよりは、「欠陥品」である社会主義イデオロギーの自己崩壊なのだろう。それこそ「歴史的必然」。
「社会的諸関係の総体」には暖かい血肉が通っていなかった。
一方、様々な矛盾はあっただろうが、ともかくGHQに占領され、「自由主義諸国圏」に入れてもらって再建の礎を築けたことは、戦後日本人にとっては幸運だったと言ってよいと思う。
皮肉なことを言えば、アメリカの軍事力の庇護のもとで経済活動に専念できたのだ。しかも復興のきっかけは、お隣の国朝鮮半島の不幸の上だったのだから本当に複雑な気分になる。
朝鮮戦争以前の戦後体制を感情的に否定したがる気分が広がっている。
さて、第一次大戦中のドイツ帝国で真面目に祖国を信じて戦い、三度も「名誉の」負傷をするほど献身的に貢献したものの、帝国主義戦争の無意味さを痛感した青年ゾルゲは、野戦病院の看護師や医師から社会主義を学び、1919年にドイツ共産党に入党する。
そしてコミンテルンの理想主義的な運動に参加した。思い込んだら徹底して実践する性格が伺われる。
ちょうど中国では五・四運動の年だ。毛沢東や周恩来が歴史に登場する頃にあたる。朝鮮半島でも「三・一独立運動」が起こった。
しかし、こと志とは違ってゾルゲの前途は決して恵まれた道ではなかった。
スターリンの登場でコミンテルンは変質してゆく。そのためにゾルゲも、所属をコミンテルンから赤軍諜報部に移された(1929年)のは不本意だったようだ。それでも理想を捨てずに最後まで頑張ったのだろう。もう、元には戻れない。
そのミッションは、とうとう極東の日本にまで到達した。
この弱肉強食の野蛮な帝国主義の時代、世界で唯一の社会主義国家ソ連は東西両国境をナチス・ドイツと日本軍国主義に挟まれ、存亡の際にあった。独ソ不可侵条約(1939年)、三国同盟(1940年)、日ソ中立条約(1941年)という具合に、狐と狸の化け仕合みたいな仁義なき合従連衡が続く。
ゾルゲは持ち前の智力・体力を尽くして、はるか極東の異国に自分の主宰する諜報組織を見事に作り上げた。それは余人の追従を遥かに許さぬ達成と言っても過言ではないだろう。
歴史も文化も異なる島国で、日本軍の「北進」を阻止するための諜報活動にあたった。そのために、場合によっては情報操作まで試みた。
ゾルゲの行動を活写した力作として「引き裂かれたスパイ」(上下 ロバート・ワイマント著 新潮文庫 平成15年刊)は、とても読み応えがあって参考になった。
この作品の特徴は訳者・西木正明氏の「あとがき」によると
「現代史の研究家や、このジャンルで仕事を続けている作家にとってゾルゲ事件は情報の宝庫といっていい。ゾルゲ事件を調べることによって、悲劇的なあの戦争の実相に迫れるだけではなく、副次的にさまざまな事柄をあぶり出すことが出来るからだ。
・・・・・本書は、通常の意味での翻訳とはいささか異なる作業の結果生まれたことを、読者におことわりしておかねばならないだろう。
すなわち、翻訳者によって原作の一部が削除ないし加筆されているのだ。当然ながらこのことは、通常の翻訳とは異なり、内容そのものについても、翻訳者が責任の一端を担うことを意味している・・・・
ゾルゲの生涯を描くことは、すなわちあの時代を描くことだと、長い間このテーマをあたためてきた。ゾルゲが命懸けで守ろうとした社会主義の祖国も、今やない。いろいろな意味で、深い感慨を覚えさせられた作業だった。・・・・」
また映画「スパイ・ゾルゲ」の篠田監督も次のように「解説」を寄せている
「・・・・すでに映画『スパイ・ゾルゲ』のシナリオは完成していて、製作の準備に入っていた。読了とともに、ワイマント氏の仕事を早く知っていたらと後悔したものである。ゾルゲ研究では最新の著作であることから、それまで先行した研究著作を上回る資料の発見、解釈の進展などが進み、私はある種の羨望さえ抱いたものである。・・・・リヒャルト・ゾルゲ事件を中心に据えなくては昭和の日本は見えて来ない・・・・・」
しかしその結末は、余りにも孤独で悲惨な最後を迎えたことになる。ときに46歳。
想像を絶する過酷な条件下での諜報活動で、身も心も荒んでゆくゾルゲ諜報団(ラムゼイ)。頼みの綱の通信使クラウゼンも、夫婦ともに逃げ腰になってきた。身辺に迫る監視、尾行の緊張に神経の休む暇もなかっただろう。ましてや極東の閉鎖的な島国で、言葉の壁も大きい外国人だ。覚悟したこととはいえ生身の人間だから、とうに限界点を超えていたことと思える。
日本での諜報活動は、すでに八年を経過していた。

しかも、もしも祖国ソ連に帰ることができたとしても(そこには妻カーシャが待っていた)、スターリンの粛清にあうことがほぼ確実であった。鋭敏なゾルゲは充分それを自覚していたと思われる。
フルシチョフが回顧録で述べているとおり、ボルシェビキ革命の大多数の功労者がすでに抹殺されていた。
ちなみにフルシチョフ時代にゾルゲの名誉回復が行われ英雄に祭り上げられたのだが、「後の祭り」感は否めないし、それもまた権力者の「政治利用」に近い。
もともと社会矛盾の克服と理想世界の実現をめざして立ち上がり、命懸けで共産主義に飛び込んできた人々だけに、さんざん政治に翻弄された末路は悲惨だ。
この間の事情は「国際スパイ ゾルゲの真実」(NHK取材班 下斗米伸夫 平成7年刊)が参考になった。
ロシアのマルクス・レーニン主義研究所元部長であったフィリソフ氏の証言を以下に引用しよう
「・・・・1920年代の終わり、コミンテルンによる国際共産主義運動は、スターリンの影響で政治方針を変化させていきました。・・・・・ゾルゲは、コミンテルンに導入された新しい方針に、反対の立場をとっていました。そして、1928年から29年にかけては、コミンテルンの議長だったプハーリンを筆頭に、そうした考えを持った人たちは、次々とコミンテルンから追い出されていったのです」(同書51ページ)
こう考えると、特高の取り調べに対して最後は大泣きして自白したというゾルゲの心境は、たんに日本の警察に負けたという以上の「敗北」を意味していたのではないか。
父はドイツ人、母はロシア人だった。両親の国どちらへも帰ることのできないゾルゲの末路は、縁もゆかりもない極東の異人たちの尋問と監獄、そして絞首刑だった。日本当局の意地の悪いことに、これ見よがしにその日はソ連の革命記念日だったという。
私は自分が生まれ合わせた平和な戦後日本が、いかなる歴史的経過を経て今日に繋がったのか、父祖の時代を振り返って考えるときに、R・ゾルゲの数奇な軌跡がとても参考になると思った。
本当に気の塞ぐような暗い話だが、手塚治虫が言い残したように「ついこの間の厳然たる事実」だったのだ。
そして、今更ながらに「戦後体制」の有難さを噛みしめた。