豪商・鴻池家の事情・・・・河内平野の近世史5

摂津国川辺郡鴻池村(現伊丹市鴻池)から出て大坂・内久宝寺町に店舗を構えた(1619年)鴻池始祖とされる山中新六。清酒の醸造を始め、このころ大消費都市への発展段階にあった江戸での販売に着手し、大成功を収めた。
それまでは濁酒だったので、鴻池の清酒の味は大評判となった。

すでに参勤交代もはじまり、江戸と西国筋との物流が盛んになっていた。これを機に鴻池家は大坂・九条島に拠点を築いて海運業にも参入する。鉄道や車のない時代、菱垣廻船や樽廻船など海運業が大坂を中心に発展した。

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寛政十年版摂津名所図会  海から見た大坂

周知の通り、貨幣経済の高度化にともない、諸藩は大坂に蔵屋敷を持って、そこに米を送って換金するようになった。その商業活動を大坂商人たちが請け負うようになって、大坂に米相場(北浜)とか青物市場(天満)などが構築された。ここに上方商人が台頭した。

こうして蓄えた経済力を、鴻池家の商売は両替商(1656年に開始)や大名貸しなどの信用供与業務へと拡張。17世紀末には信用取引業務が発展、高度化したという。鴻池家は、この商業経済発展の波に乗って巨富を築いた。

ファミリーの中で、特に新六の八男善衛門正成(初代)に始まる大坂今橋・鴻池が最も栄えた商家として幕末まで10代続き、明治以降は日本を代表する金融や鉄道事業にも参画、その家系は今日までも存続しているらしい。

専門家の研究では、現存する最も古い複式構造を持つ商家帳合いは鴻池家の「算用帳」で、1670年(寛文10)にまで遡れるという。これは、この時点ですでに財務管理技術がそこまで高度に発達していた証拠だという。

同年、公儀から「10人両替」のひとつに選ばれた鴻池家は幕府公金を取扱い、帯刀町役免除の特権を与えられた。また、このころ江戸と大坂の間では盛んに為替取引が行われるようになった。
この時期に鴻池家から大名貸しを一度でも受けた諸藩は、実に111藩に達しており、全国の三百諸侯の三分の一が鴻池家からなんらかの資金の融通を受けたという。

一般的に富裕な商人が武士に資金を融通する形態は、はじめは不足分を一時だけ用立てするような消費貸借的なものだったが、鴻池などの「大名貸し」商人は上述のように、藩米などの蔵物流通に結びついた信用供与の性格を持つところに特徴がある。
それは、17世紀後半には大名貸しによる利息収入が有利で安定的な事業と考えられたからであったらしい。幕藩体制の屋台骨が、まだしっかり機能していたからだろう。
(日本企業経営史研究 宮本又郎 有斐閣 2010年を参考にした)

それゆえ、大名貸しは18世紀後半に収入利子率の低下が顕著になるまで、着実に鴻池家に利益をもたらした。(同書)

そして18世紀初頭、この蓄積資産の新たな投資先の一つとして、大和川付け替え後の新田開発が視野に入ったのだろう。そこには既述した通り、幕府・大坂町奉行の思惑と、鴻池家3代(当時39歳。山中新六から数えると4代目)宗利が家業安定を意図した、算盤勘定の合意点なのではないかと推測される。
新田開発にかかった総費用は銀高にして約3000貫目、同時期の鴻池家の算用帳面における純資産は2万5000貫目なので、その12%が投じられたことになるという。
しかも、3代目宗利はすでに本家資産を一子善次郎(4代宗貞 まだ8歳の子供だった)に譲り、本家資産とは別に所有していた宗利自身の資産から捻出したらしい。新田開発のリスクを本家の経営とはひとまず切り離しておく工夫だったというのだから、周到に考え抜いて着手した様子が伺われる。

当時、鴻池家から代官万年長十郎に差し入れた一札(差上ヶ申一札之事)が残っていて、新田開発並びにその経営にあたって宗利が幕府に誓約した様々な条件が読み取れる。幕府の天領を、お定め通り恭しく拝受するというような姿勢がうかがわれる。
万一それらの条件に違背した場合は、いかなる罪科をも甘んじて受ける、と誓約した(あるいはさせられた)もので、専門家の間では宗利の相当な覚悟が伺われると分析されている。
(人物叢書 鴻池善右衛門 宮本又次 吉川弘文館)

私は、金を出している鴻池がかくも平に低姿勢であるのは、やはり封建時代の身分制を反映しているからでもあると思う。平等を旨とする今日の社会感覚では測りがたい階級意識が読み取れると思う。

土地こそが権力の源泉である武門の幕府が、天領の土地を恩義せがましく商人・鴻池に金を出させて経営させてやる、という感覚なのだ。鴻池宗利も、表向きはお上の体面を存分に忖度しながら、畳に額を擦り付けて、いかにも有り難く請けるような姿が目に浮かぶ。そこには大坂商人の賢い打算もあるように思う。

しかし表向きは別として、すでにこの時代、カネがことを左右する時代に入っていた。

このあたり、先に「すんまへん」と下手に出ていながら、その実はちゃっかり実利を懐にする、大坂商人の面目躍如たるものがある、と想像するのは邪推だろうか。私はむしろ、そこに庶民の「たくましさ」があると感じる。初めて大阪の街に来た時に感じた庶民のおおらかな打算感覚の淵源だろうか。商売人は体面より実利なのだ。江戸時代に実学が発展した素地もここにあるのだろう。

ところで少し脱線するが、この時代の大坂商人の話を調べていて面白いことに気付いた。鴻池家もそうなのだが、自分たち一族の遠祖を落剝した戦国武士としているケースが、散見できるのだ。

なぜこんなことに注目したのかというと、実は私の父方の祖母が尾張徳川藩の御用商人(完成品としての刀を藩に納めていた)の出身で、姓を「石田」という。
石田家の親戚には自分たちの先祖を「石田三成」とする言い伝えが古くからあって、それが尾張徳川藩出入りの商人であるということは非常に都合が悪いので、長い間秘密であったというのだ。
名古屋大空襲で焼失した、その商家の仏壇(本願寺派)の裏には石田家ゆかりの品か文書(家系図かもしれない)が大切に保管されていて、子供たちは触ってはならない掟であったという。父や叔父が子供の頃(昭和初期)まで、確かに何か大事に保管された品物があったようだ。

本当に三成の子孫かどうか、真偽のほどは怪しいものかもしれないが、むしろ尾張徳川藩の御用商人でありながら、そういう話しが先祖から伝わっていることの方に私は関心を持った。
それほどに封建的な身分制や血統信仰が、日本人の心に深く根を下ろしていたと考えられるからだ。出自に「箔」を付けたいのだろう。やはり「お武家」さんのほうが「上」という秩序感覚は、戦前までは残っていたのだと思う。
ちなみに父方の先祖は姓からして鳥取藩の末裔だという。また母の先祖は九州の佐賀藩(鍋島家か)だったという。
しかしそんな先祖のいわれは、私の世代ではまったく意味を喪失している。しかも家系を調べてみると、武家も商家も「家」を存続するための複雑な養子縁組が錯綜していて一筋縄ではない。
このことは、いずれ「身分差別」の問題としても考えてみたいところだ。

さて、その新田開発で宗利は、雨の日も風の日も毎日三里の道を駕籠に揺られて出向き自ら工事を監督したという。(同書)

新田における経営は総収穫のうち小作料21%、肥料代30%で、残り49%が地主分配分となっていた。この49%から年貢取り分及び新田設備費、管理費を除いたものが、地主作徳(収入)となるが、この地主作徳の地主分配分に占める割合は、開発当初は50%と高かったが、18世紀以降は20%以下に落ちるようになった。この地主作徳の新田開発入用費(幕府への地代上納金および設備投資費)に対する比率はだいたい2~4%だった。したがって、それは初期には大名貸の実収利率(同じ時期の契約上の利子率は5~8%)よりも低く、巨費を投じたものの、当初はあまりうまみのある事業とはいえなかったようだ。
(日本企業経営史研究 宮本又郎 有斐閣 2010年)

しかし、大名貸しが18世紀後半からは収入利子率の顕著な低下を示し始め、危険信号が灯り、19世紀には貸し倒れなどが起きたときには、新田は長期にわたる安定的な収益源であったことも指摘されている。(同書)

鴻池宗利の先見の明が、後代に生きたといえるのだろう。
だとすれば、端倪すべからざる見通しだったと思う。いくら巨富を築こうが、大企業を興そうが、創業者が時代の波に乗っただけのことで、代替りしたあとの後継者の環境変化、不始末や無能力でたちまち没落するといったことは、あらゆる企業、団体によくある現象。
創業よりも守成のほうが難しいという、唐代の「貞観政要」の指摘を待つまでもない。

このころ、鴻池家は本家を中心に資産相続をするルールを確立して、分家、別家など血縁的なネットワークを築いた。そして本家を中心にした血統ヒエラルキーによる業務分担を形成した。その体制を維持して家業を安定化させ、永続化たらしめるための「家憲」「家訓」などを明文化して後世に伝えている。宗利の時代に、大名貸しを専門的に行う両替商と新田経営のみに専念する事業体制に入ったのだった。
こうして鴻池財閥は創業から安定期に入ろうとしていた。

一方、この新田村の経営には緻密な工夫が様々に払われた。なかなかに興味深い

(続く)

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