柳田國男の名著「遠野物語」を読んでいたら、死んだ父母(ふたりとも大正末の世代)が話してくれた昔話を、いくつか思い出した。
母の実母、つまり祖母の実家は「森」という姓で、油を商う博多商人の古い家系だったらしい。
母の博多への里帰りに供した時の話。
母たち姉妹(つまり叔母たち)が子供のころよくお参りに行ったという「大きな御影石」の墓石のある寺を、いちどだけ見学に訪れたことがある。
調べてみると、それは博多市内の「西教寺」という浄土真宗東本願寺派の古刹だった。
そのときは母の妹二人と一人の叔父(下の叔母の夫)が同行した。下の叔母しかいまはこの世にいない。
行ってみると高さ2メートルはあるかという、ひときわ大きな御影石の墓石があり、確かに「森何某」という母の祖父(私は玄孫にあたる)が発願した代々墓石があって、ちょうどお盆近かったからだろう、手向けられた線香からまだ煙が上がっていた。つい最近まで、どなたか森家ご縁の方が供えたものだろうと思った。母や叔母たちも、何十年ぶりだろうと墓石を見上げながら、懐かしがっていた。
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その森家に伝わる話。
この墓石に建立者として刻まれた曾祖父は油商人森家の当主だった。
この「御爺さん」は「英彦山(ひこさん)」の熱心な信者だったそうで、生前よく家族を連れて英彦山にお参りに行ったのだそうだ。
山道の途中の峠に「茶店」があって、そこで一休みしてお茶とお菓子を頂くのが、子供心に何より楽しみだったのでよく憶えているのだろう。そこには、いつもお茶を出してくれる年老いた尼僧がいた。お参りのたびに立ち寄るので、その尼僧と森家の人々は顔なじみであった。
その御爺さんが亡くなって、森家の人々は亡き御爺さんの供養ということで、縁者が集まって英彦山にお参りに行った。
件の茶店に立ち寄り、いつもの通り茶菓子を所望した。すると例の尼僧が出てきてこう言ったという。
「これはこれは森家の皆さん、ようこそおいでなされました。つい先ごろまで、森の御爺さんがそこの席に座っておられまして、英彦山のほうをじっとご覧になっておられましたよ」と。
尼僧は森の爺さんが亡くなったことを死らぬげで、一同大いに驚いたという。
そして「きっと爺さんも一緒にお参りに来られたのだろう」と、皆が納得して語り合ったのだそうだ。
昭和初期の話だろう。
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玄孫の私は「英彦山」には行ったこともないが、福岡県と大分県にまたがる、古来から山岳信仰で著名な山のようで、そのホームページに詳しい情報が掲載されている。
その「森の爺さん」は孫の(私の)母をよく可愛がってくれたのだそうで、英彦山のお参りにもたびたび連れていってくれたそうだ。
ある時、二人で山の還り道に迷ってしまい、歩いても歩いても何回も同じところに戻ってきてしまようなことが起きた。
爺さんは「これはきっとキツネに化かされたのじゃ」とかいって、思いっきり大きな声でキツネを叱りつけたそうだ。
子供の母にはキツネの姿も見えなかったが、大喝されたキツネが逃げたらしくて、そのあとはちゃんと麓に帰ることができたのだという。
お化けの話もけっこういろいろあった。たとえばこんな話も聞いた。
幼馴染で仲のよい従弟がいて、海軍の軍人として出征し、巡洋艦「那智」の水兵さんだった。戦争中のある日、夢かうつつか、母の枕元にその従弟が立ったという。いわゆる「夢枕」の話。
従弟は全身ずぶ濡れだったという。
後で知ったのだが、同じころ、確かに巡洋艦「那智」はマニラ湾で米軍との戦闘で撃沈されていた。
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最近調べて見たら、佐世保には巡洋艦那智の「忠魂碑」があった。
そこに
「昭和19年11月5日比島方面作戦中、米機動部隊艦載機120機以上の集中攻撃を受け、克く敵機多数を撃墜、勇戦激闘8時間余の末、那智もまた被害続出、満身創痍となり操艦、応急意の如くならず、遂に戦雲高きマニラ湾にその勇姿を没せり。
時に午後3時40分。
このとき艦と運命を共にするもの艦長以下将兵800余名。」
とある。その中の一人だったのだろうと思う。
「戦争さえなければねぇ・・・・立派な青年だったのに、惜しいことをしたよ、本当に。」
と、母はよく述懐していた。
母には一人弟がいて(私には伯父にあたるが、先年亡くなった)、若い時東京の立川に住んでいた。確か、米軍基地の通訳のような仕事だったように思う。
ある夜、立川に大火が起きて、気が付いた時には伯父の住んでいたアパートもすでに煙に巻かれていた。
取るものも取り敢えず、一張羅の背広とカメラだけ持って逃げたのでかろうじて被災だけで済んだ。その同じ日、母は火災で逃げる弟の姿を夢の中で、確かにありありと「見た」という。
父も、面白い話をいくつか残した。
岐阜にいた子供のころ、仲の良い友人の家で将棋か碁をさして遊んでいたとき。
突然、バタバタという大きな音響とともに、天井のすぐ下あたり、壁を突き抜けて多数の人魂が早い速度で通り過ぎたのを、ふたりして目撃したというのである。
この友人の家は寺で、二人がいた部屋の外は庭になっていて、墓地がに接していた。
多くの人魂は墓地から庭先を超え、壁を貫通して部屋の天井したを大きな音をたてながら、ほとんど一直線に飛びすぎていったらしい。
子供だった父も大いに驚いたが、友人の話では「ときどき、こんなことがある」ということだった。
これもおそらく、昭和初期の頃だろうと思う。
出征中の漢口だったか、昭和20年の5月頃、父は夢か幻か、確かに自分を呼ぶ母方の祖父(私には曽祖父)の声を兵舎で聞いたという。
一番父を可愛がってくれた人らしい。
「たぶん、爺さん死んだな」と思ったという。
復員してみてわかったが、同じころ、岐阜でその曽祖父は確かに死んでいた。これは本サイトでも紹介した。
この人は「神国日本」が負けるはずはない、と素朴に信じ切っていたそうだ。
曽祖父は江戸時代からの尾張徳川藩御用達で、先祖代々の広壮な商家(刀商人)の当主だった。その邸宅を名古屋大空襲で完全消失してしまった。やむなく岐阜の娘夫婦のもと(父の実家)に疎開したものの、意気消沈して悲嘆の中で死んでしまったらしい。
こういう類の話は日本中どこの家にも、様々に伝えられているのだろうと思う。ところが私たちの世代になると、なぜか不思議な体験はあまりない。
他愛のない昔話だと思っていたが、100年前に採集されたという「遠野物語」を読んでいたら、自分の先祖の話も少しは書き残しておこうという気になった。
(2に続く)