キトラ古墳壁画 飛鳥人の宇宙感覚 (3)

こうした素朴な疑問点に、納得性のある解説があった。
別冊宝島「キトラと日本の古墳」(2016年11月刊)

このなかで、奈良文化財研究所 飛鳥資料館研究員の若杉智宏氏のインタビュー記事はとてもわかりやすい。
「・・・・キトラ古墳の天文図の観測地分析は、分析の対象とする星によっていろいろな結果が出てきます。つまり、分析に用いる星が異なれば、観測地候補もいろいろと出されるのです。もうひとつ、天文図に描かれた3つの円〘内規・外軌・赤道〙の大きさから観測地点の緯度を算出する方法もあります。・・・・つまり、観測地を割り出すには、天文図の精度が非常に深く関ってくるのです。」(同26ページ)
※直径約60センチの円の中に350以上の星々と4つの円(太陽の黄道を加える)が描かれ、朱線で結んだ74個の星座(星宿)が確認できるという。

「・・・・観測年代についても、観測地同様、天文図の精度によるところが大きいですから、まだ定説というのは生まれていません。
ただ、いずれの説にしても、日本で観測された可能性というのはほぼありません。・・・・日本に本格的な天文学、暦などの知識が入ってくるのは推古天皇の時代(6世紀末~7世紀初頭)ですので、日本の星空である可能性はゼロであるといえます。また、キトラ古墳が造られた時代でも、日本国内で星図を作る技術はまだなかったと考えられます。ですから、キトラ古墳の天文図は中国あるいは朝鮮半島から伝わった星図をもとに描かれた可能性が極めて高いのです」(同27ページ)

※推古天皇即位(592年)から藤原京(694年~710年)までの120年くらいを飛鳥時代とするのだが、その間に「日本国」の制度的、文化的な原型が成立したようだ。そのときに百済はじめ半島や大陸の先進文明を本格的に導入したのだ。その間の紀元700年ごろに高松塚とキトラ古墳が築造されたと考えられている。

残念ながら、同時代の飛鳥の空を描いたものではないことだけはやはり確かのようだ。
素人の勝手な空想が誤りだとしても、それではいったいいつの時代のどこで観測された天文図なのか、気になっていた。
実際、天文学の専門家の間では、この天文図が紀元前から紀元後400年までの中国長安付近ではないかとか、北緯37度の高句麗の都市の空などと比定する説もあって、私のような素人にはますますわからなくなってしまっていた。杉原氏の指摘のお陰で、その迷路からやっと抜け出た思いだ。
ただ、その過程でいくつか気のついたことがある。

中国や朝鮮半島では、これほど古くて精緻な天文図がこれまでに発見されていない。だから、キトラ古墳の天文図はまさにその「先駆的な発見」なのだ。今後、大陸や半島で飛鳥と深い繋がりを示す発見・発掘が期待できるかもしれない。

もうひとつは、何といってもアジアの古天文学における中華文明の偉大な貢献。
現代人である私達とはまったく異なった宇宙観だが、すでに紀元前、おそらくは殷の時代から天体観測技術が発展して知識が蓄積してきていたことがよくわかった。朝鮮半島や日本は、やはり黄河文明の恩恵に預かる周辺地域だったのだと再認識した。

高校生のころ、世界史の授業で「東夷西戎北狄南蛮」という中華思想の世界観を表す言葉を学んだことがあるが、そのあからさまに差別的なニュアンスに違和感を持ったものだ。日本(倭)などはさしずめ「東夷」、つまりは「東方の野蛮人」だというのだから、あまり気持ちのいい表現ではない。

白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に大敗した直後の大和朝廷は、国土の防衛整備を進めるとともに先進文明の輸入を急いだのだろう。660年に滅亡した百済からの「政治難民」もたくさん移住してきたことだろう。そのなかには進んだ文化の担い手もたくさんいた。先進地域の文物は、飛鳥人から見て憧れのまとであったことだろう。

しかし、私達が中学生、高校生の頃の日本は「世界第2の経済大国」であり、あるアメリカの学者が「Japan as number 1 」などという、歯の根の浮くような「よいしょ本」(私にはそう思えた)を出して話題になった。
私には本のタイトル自体が軽薄に感じられた。「こんなに矛盾だらけの日本なのに、なにがナンバーワンだ」と反感を持ったものだ。

それに比べて、お隣の中国は国交のない「後進国」に見えた。
天安門前広場の映像を見ても、車なんか走っていなくいて、ほとんどは旧式の自転車ばかりで侘しさすら感じた。
神田の中国物産店も品揃えが貧弱で、確か150円で購入してみた万年筆「英雄」の品質がとても粗悪だったことを覚えている。
正直に告白すると、政治大国ではあっても、それ以外の分野ではあまり魅力のある国とは思えなかった。それがわずか四十年前後で、こんなに質量とも大発展するとは予想もしなかった。有人宇宙飛行まで成功させた。
大阪の電気街など、今では中国人お客様の「爆買い」が売上げの頼みの綱だ。

今、思い直すと、いっときの姿で即断してしまったのは、目先の物質的な貧富に幻惑されていたからに過ぎない。たかだか150年前後の近代史のなかでのいっときの彼我の差に過ぎないのに、我ながら歴史を俯瞰する見識が足りない。
古代中国の単純な「中華思想」を笑ってはいられない。近代日本の自己認識だって「おらが村は世界一」並の思い込みが激しいのかもしれない。

話題をキトラ古墳天文図に戻すと、「輸入品」の高精度の天文図をもとに天井に星図を描かせたものの、実際には黄道が不正確であったり星座(星宿)の位置にも微妙なずれが生じていたようだ。かつて香港製とかの偽のカルチェやイヴ・サン・ローランが流行ったようなものだろうか。
「・・・・これまでの分析結果によれば、キトラ古墳『天文図』の黄道を同心円の南北で反転させると、おおよそ正しい位置になるという。」(37ページ)
という指摘などからして、どうも初歩的な作業ミスがあったように思える。
察するところ、絵師たちの天文知識の未熟さが透けてみえるのではないだろうか。作業にあたって当代の天文学に詳しい人が監督していたとは思えない。だんだん真相が見えてきた。

それでもなお、このレベルの天文図は今のところ日本の高松塚とキトラでしか発掘されていないという貴重さがあるのだろう。

キトラ古墳壁画体験館の全景

尚、若杉氏は渡来系の絵師が書いたのではないかと推測されている。

現在キトラ古墳や高松塚古墳がある地域は渡来人・東漢氏の拠点でもあったということから、被葬者は案外渡来系の人かもしれないという説もある。
確かに同時代の天皇や皇族の墳墓からは、同等レベルの天文図はこれまでに発見されていない。

しかし、古代史に無知なので、勝手な空想を以下の通り許してもらいたい。

ひょっとすると大陸や半島の先進文明の水準と飛鳥時代の(倭)の後進性の落差なのかもしれない。飛鳥の絵師たちにとっては、「天文図」を描くことじたいが慣れない作業だったのではないだろうか。
(これまでの調査の結果、これらの壁画にはヘラ状のものでなぞった下書きがあることがわかっており、原図を壁面にあて、ヘラ状のものでなぞってから描いたと見られている)〘キトラと日本の古墳 別冊宝島 2016年11月〙

元になる図面の精密さと古墳壁画の天井図との間の「落差」には、そうした事情が反映してはいないだろうか。
ちょうど維新前後のお侍が、ちょんまげをして西洋服で往来を歩くようなちぐはぐさに似ていたのかもしれない。

つまりは先進文明を急速に取り入れて「日本(倭)化」した時代だったのかもしれない。
それはまた、敗戦後の日本が必死なって「アメリカさん」を学んだ経過とも類似するのかもしれない、などと。私たちは子供の頃、テレビに映し出されたアメリカ文化に強い憧れをもったものだ。

渾天儀(大阪市立科学館)

いずれにせよ、この天文図が北東アジアの密接な文化交流の賜物であることは間違いない。そしてこうした星図を産んだ古代中国の天文学「渾天説」を知ることは、和漢の古典を理解するためにも大切な基礎知識になると思った。