発想の転嫁を促すアインシュタインの世界  

以下は素人の粗っぽい科学理解を許してもらうと・・・・・・。

アインシュタインが1905年に発表したという「特殊相対性理論」は「相対性原理」と「光速度不変の原理」を基礎にしているという。space049

この時代、光は波の性質を持つということがわかっていた。しかし、科学者の間では、波を伝えるための媒体(「エーテル」と仮称されていた)の存在が、なかなか実験的に証明できなくて困っていたようだ。

音波が空気を媒体として伝わるように、また波は水を媒体としているように、光を伝えるための「エーテル」があるはずだった。しかし正体をつかめない。

そこで、アインシュタインは、光の速度を一定にして、従来の時間や空間についての考え方を本質的に変えてしまうことによって宇宙を再解釈した。そうして「エーテル」のような媒体の存在を否定した。

光は観測者がどこにいても、あるいはどのように運動していても、いつも秒速約30万㎞で「一定」であって、しかもこれが「物体の最高速度」だ、としたのだ。光速度不変の原理を設定した。

そこで、有名な思考実験だけど、光速に近い速度で飛行する宇宙船を想定してみる。

宇宙船の外には観測者のいる静止した惑星があるとする。宇宙船の中にも、観測者のいる惑星にも同じ「光時計」が設置してある。
宇宙船が光速に近い速度で移動するという条件で、惑星の観測者側から見た宇宙船内の時間と、惑星上の時間とを比較するのだ。
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光と時間と距離の関係では単純にピタゴラスの方程式が成り立つ。
そのため、光速が一定であれば、宇宙船内の「時間が遅れる!」という事態が導き出される。

数式
a²+b²=c²

a:光時計の高さ b:宇宙船の移動距離 c:惑星の観察者
から見た宇宙船の光の移動距離

今度は同じ条件で宇宙船の中から惑星の「光時計」を観測した場合には、惑星のほうの時間が遅くなる。
つまり、惑星側から見ても宇宙船側から見ても、お互いに相手の時間が遅れて見える。
奇妙な結論だけど、「常識に反して」科学的には両方とも正しい。

次は宇宙船と惑星の関係で、宇宙船が光速に近い速度で一定の距離にある惑星に向かって飛ぶと、宇宙船側から見ても惑星側から見ても、互いに相手が縮んで見えてしまう。空間が縮むからだという。
不思議だが、それが科学的には正しいらしい

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自然界には、力が釣り合って静止しているように見える場所(慣性系)はあるけど、完全(別のことばでいえば「絶対的」)に静止している場所などない

光速度が不変であると決めると、距離が縮まないと辻褄が合わないから、空間も縮む。実は時間と空間は切っても切れない関係にあって、ここに「時空」という、まったく新しい概念が生まれた。それも、根本的には「光の速度が一定」だからだ。

アインシュタイン以前、この宇宙のなかではどこにいても、皆が共通の時間軸と空間軸のなかに生きていると考えられてきた。
それは、「絶対時間」と「絶対空間」という、互いに独立した基準がこの宇宙にあるはずだ、という前提(=古典力学)を何の疑いもなく人類は信じてきたからだ。これは、生活実感からして無理のない推論だからだろう。

ところが光速だけが一定で、時間も空間も相対的である、という宇宙の実相をアインシュタインが着想したのだった。前代未聞の世界認識だ。

これが、「相対性原理」と「光速度不変」の原理から導かれる結論だという。

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その理論が、次第に実験的に証明されてゆくところが素晴らしい。

たとえば、光速に近い速さで地球に飛来する「宇宙線」は、大気圏にぶつかってミューオンという物質になるが、普通は大気圏内で瞬時に寿命が尽きる。

ところが、光速に近いため、地上から見ると時間の遅れから、そしてミューオン自身からすれば空間の縮みによって、本来たどり着けないはずの地表に到達しているミューオンもある、ということが観測によって確認されている。
こうしてアインシュタインの相対性理論の正しさが極微の世界でも確認されてゆく。

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さらに、光速に近い速度で加速移動する物体を想定すると、光の速さに近づくほど質量が増大する。光速を超えることはできないので、物体を加速しようとして投入されたエネルギーは質量に変わってしまうという。
つまり従来「エネルギーと質量は別のもの」という当然の概念が、実は間違っていたということになる。
これも生活実感からは信じがたい現象だが、究極的には互いに相手に変わり得る互換性がある、というわけだ。こうして原子力エネルギーへの道が開かれた。

数式      E=m×c²

E:エネルギー  m:質量  c:光速

次に、加速度運動する場合に出現する「慣性力」と「重力」とが、実は同じものであること(=等価原理)にアインシュタインは気づいた。

この「生涯最大の発見」にたどり着いたことから、「特殊相対性理論」は「重力」を組み込んで「一般相対性理論」へと拡張・発展できた。
「等価原理」が土台なのだ。

そこでは、重力とは「空間の凹み」であることが導き出された。光は曲がった空間をその凹みに沿って進むという。これまた我々の日常感覚では思い浮かべることですら、なかなか至難な現象だ。

しかし、 このことが1919年の日食の日に、アインシュタインの予言どおり、太陽の後方にあって見えないはずの星が天体観測で確認され、「一般相対性理論」は世界的な名声を得た。
太陽の重力でできた空間のくぼみに沿って光が進むからだという。勿論、光それ自身は直進しているのだが。

これは現代の宇宙論に引き継がれて、従来の既成概念では想像を絶する、さらに不可思議で魅力的な宇宙論へと発展しつつある。

例えば、アインシュタイン方程式の予測通り、ブラックホールという天体は膨大な質量をもつので、外から見ていると、光は吸い込まれ、時間が遅れて止まったりするという。とても不思議な現象だ。
実際、ブラックホールの存在は、今では定説になった。これで、理論上はタイム・マシンも可能なわけだ。

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今もなお、アインシュタイン以後の科学者たちの新しい知見が積み上げられ、私たちに未曾有の興味深い宇宙観を提供してくれている。

そこで思うのだけど・・・・・。

それにしても、「時間が相対的」だなんて、これまで誰が思いついただろうか。 すべての観測者に「固有の時間」があり、それゆえに、厳密にいうと、お互いに異なった時間を生きているということになる。
結局、宇宙にはそれぞれの立場によって立つ「相対的な時間」しかないことになる。
そこからたとえば、ある観測者にとっての「同時」は他の観測者の「同時」とは不一致なのだから困ってしまう。

空間がまるでゴムまりの様に伸びたり縮んだり曲がったりするなんて、これまで誰が想像し得ただろうか。なかなか現実感が追いつかないが、空想力を限りなく刺激する話だ。
更には、空間のくぼみこそが重力の原因であった。こうして従来の万有引力の法則では解明できなかった、宇宙のはてまで天体現象を合理的に説明できるようになった。
こうした不可思議な宇宙の実相は、もはや我々の生活実感を超えている。

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ニュートン力学の描いた世界は、まだ日常感覚をもとに最大限の空想力を働かせてみて、なんとか指先が届きそうだった。

宇宙は「静的」で、絶対的な時間軸と空間軸が支配しているのだろうという、「常識的な」前提があった。

今も日常生活を営むうえではニュートン力学でほとんど不自由はない。しかし実は「厳密」ではないし、宇宙大でも極微の世界でも説明できない矛盾が生じる。
従来の世界観はとても狭い、限られた世界での現象を、不十分に説明したに過ぎなかった。

「相対性理論」が開示した宇宙像は、生身の人間の知覚では追いつない「実相」なのだった。

結局アインシュタインの偉大さとは、誰もが当然だろうと思考停止していた常識を疑ったことだと思う。そして「光速度不変の原理」をツールに「宇宙を再解釈」してみせたことだろう。そしてまったく前代未聞の宇宙像を開示できた。
しかも、それは絵空事ではなくて客観的な観測結果と符合し事実確認された。

人類の宇宙観に根本的な転換をもたらしたのだ。

人類はこの地球を取り巻く薄い皮膜のような生物圏で生きている。
そのなかで生息に必要なだけの、限られた認識で、通常の生活は事足りていた。逆に言えば、とても限定的な狭い宇宙観で自足してきた、ということだろう。

それで思い出すのは、「相対性理論」とは関係ないが、子供のころ学校で地球が球形をしているのだと学んだときのこと。

夏休み、海水浴に行ったおりに、一生懸命に水平線のかなたに眼を凝らした。どうやら空と海面の境界面や海面の両サイドが、やや球面のように沈んで見えたので得心した。確かに海面の一番奥では船体が沈んで見えた。
それでも子供心にやはり不思議だった。なぜ海水が地平線の両サイドや裏側に流れ落ちないのだろうかと。
どうやら、身の回りとは隔絶された別世界が、はるかかなたにあるのだなと感じた。

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こうした科学的な宇宙の再解釈は、同時にまた、我々の人生観・世界観にも重大な転換を迫っている、とは言えないだろうか。

我々は、どうしても自らの身辺の及ぶ範囲で世界や宇宙を結論づけようとする。しかし、その前提は崩れたのだ。
例えば、地球が宇宙の中心であって、太陽も地球を周回しているに「決まっている」という「常識」も、そういう頑迷な固定概念の産物だったのではないだろうか。

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思いも寄らない「真相」が登場すると、自分の固定概念が動揺するので、自己防衛本能が働く。思わずためらいを生じ尻込みをしかねない。 だから、従来自明だと思われていたことを跳躍するには、とても強い勇気が必要だった、ということなのかもしれない。

人間存在の不可思議さも又、これまでの「固定概念」「既成概念」を思い切って再吟味してみることから新しい局面の展開があるかもしれない。

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「生活時間」の曖昧さ

たとえば、実際に我々が当然のごとく使用している時間概念についても考え直してみたい。たとえば「瞬間」と「永遠」という観念の整合性。
よく考えてみると、どうもうまく噛み合わないように思う。

高校生の頃、通学途中の電車の中でボーッとしながら、よく思った。
「今という瞬間」は「幅」のない一断面みたいなもの。なのに、なんとなく連続して時間という「幅」を生んでいるように考えている。
でも、「瞬間」をいくら集めても「時間」という「幅」にはならない。瞬間に「幅」はないからだ。
なんで人間はこんな曖昧な概念を当然の前提にして生きているのだろうか、と。
思いつめる必要はないが、実は基本的にいい加減な基準なのだ。
ないものをあるように仮想しているにすぎないのではないだろうか。

ひとつの原因は、日常使っている「言葉」に限界があるのだろう。言葉に託された既成の概念が、「瞬間の実相」や「永遠」を正確に表現するには貧弱に過ぎるのではないだろうか、と。
だから「認識」が不正確なのは、そもそも厳密性を欠く「言葉」に振り回されているからなのではないか、と。言葉の限界を弁えた思考をしないと、世界の真相は解明けないのだと思った。

かと言って詩的表現で神話的に説明されても、物語としては面白いけど、受け止める各自の主観に大きなばらつきを生じかねない。そこに安住すると「我見」「教条」に陥りかねない。主観主義には、しばしば感情に偏った「知的怠惰」がある。

その点、科学は妥協のない数式で表現してくれるので、非情なまでに美しい普遍妥当性がある。誰でも観測技術があれば同じ結果が共有できる平等性がある。

ただ、「時間の正体」は科学者の間でも、いまだに議論が決着していないらしい。

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「一生」という「時間」についても、「死ねば終わり」という、現代の支配的な現世観では、やっかいなニヒリズムを克服できないと思う。

「人生ってどうせ終わりがあるのに、なぜ今、本能的に一生懸命生きようとしているのか、自分でもよくわからないな。」
とあの頃はよく思ったものだ。

この世しかないとすると、「死」は自分にとって「究極の終わり」になる。
「死」を決定的な断絶と見ることは、そのまま「生」の価値を無化することになりかねない。
へたをすると、生きている間の努力がすべて無駄に感じられるような落とし穴がある。だから短兵急に「死」をお手軽な解決策にしてしまう。
それを「抒情」に紛らす「文学まがいの欺瞞」が嫌いだった。20世紀人のとるべき態度ではない、死を手段にする解決法には、安易な「逃げ」があるのではないだろうか、と。生きるということは、実は深刻な矛盾を孕んでいる。突き詰めて考えると、解けない問題ばかりだ。

つまるところ、宇宙の壮大さ、不可思議さ、深遠さに比べて現代人の人生観があまりにも矮小なのではないだろうか。
今のままでは、どうも「存在の根拠」が薄弱で、うまく腑に落ちない。なにもかも不確実で曖昧。

医療の発展で長寿は達成しつつあるけど、実はそのぶん、生命感が希薄な余生の過ごし方に戸惑っているのではないだろうか、と疑い深く思ったものだ。宇宙の長遠さにくらべると、たかが100年前後の人生、実は薄いか濃いかだけの違いかもしれないのだ。
飛躍するかもしれないけど、人はやはり「永遠の今」を生きたい、と心の底で希求しているのではないだろうか。有限だけど、永遠の大地に足の着いた自足感、納得感が欲しい。そうでないと、いつやってくるかわからない「死」の登場をいたずらに恐れることになりはしないか。自分の「有限性」を心のどこかで自覚しているからだろう。齢を重ね、終わりがほの見えてくると、ますますそう思う。

やはり、「永遠」に手の届くような具体的な実感を得たい。
そこに「無化」されない本当の「意味」や「満足」が生まれるのではないだろうか。そうして初めて「死」を素直に受け入れられる。生まれ合わせたことの意味・目的が首肯されるのではないだろうか。

この世だけの浮草の様な人生では、あまりに空しい。
一人一人の確かな「生きる意味」を回復することが、何よりも大事だと思う。意識するとしないとに拘わらず。

それが、せっかくの人生を肯定することにつながるだろう。

そのために、思い切って新しい思考の枠組みが必要なのではないかと思う。

新しい宇宙の姿は、それ自身が知的興奮を与えてくれる楽しさがある。
と同時に、自分自身の「存在の不可思議さ」をふと気づかせてくれる。
だから、科学者たちが次々に開示してくれる、新鮮で驚異的な宇宙観に心惹かれるのではないだろうか。

夜の闇に浮かぶ満天の星空。
まるで自分の体が浮遊して、宇宙に吸い込まれるような錯覚に陥る。

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帰宅時間に偶然に出くわす煌々たる大きな満月。

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なにかしら自分が凝視されているような気恥しさを感じることはないだろうか。
思わず「あ、見抜かれた!」と思ってしまうような・・・・。

子供のころから不思議でならないことをもうひとつ・・・・。

地平線に近い月と天空の月は、同じ日でもサイズが違うのだが、その理由について、いまだに科学的には完全な説明がつかないそうだ。

そのように「錯視する人間の認識作用」にどうやら原因があるようだが・・・・。