友人に薦められて1948年公開のこの有名な映画を観た。
あまりに「救い」のない結末(と自分には思われる)に気が重たくなった。
勿論、そもそもそういう効果を狙って作成された映画には違いない。よく出来ているなと正直に思った。
1948年といえば、昭和23年だから(和暦に換算しないと時代考証ができないのは不便だと思う)、イタリアも日本も敗戦直後の社会。その険しい世相を反映しているのだと思うけど、現代の我々には実感が困難なほど凄惨な貧困ぶりだ。
失業者は巷に溢れ、路面電車や乗り合いバスはすし詰めで、人がはみ出ている。乗降口は長蛇の列だし、皆が生活に追われ、イライラしていがみ合っている。
ストーリーを紹介するのが目的ではないので大幅に省くが、ある若い失業者がいて、やっとありついた市役所のビラ貼りの仕事、それには、自転車が必需品であり、必須の就労条件だった。
仕方なく、妻がなけなしのシーツを質入れして、以前質入れしていた自転車を請け出す。家計は「自転車操業」なのだ。
ところが、その大切な自転車を仕事の初日に盗難されてしまう。困った主人公は息子(低学年の就学児童だと思う)を伴って盗難自転車を捜す・・・・・・。
この主人公も子供もまったく素人俳優なのだそうだが、演技はとても自然だし、細かいしぐさも実にリアルにできているので感心した。
モノクロ映画だけど、絵画のように美しい構図の場面も多い。とくに雨宿りで教会の壁面に僧侶たちと共に並ぶシーンは印象的だ。ここにもなにか寓意が込められているのだと思う。
人によってはイタリア映画の5本の指に入る傑作だという。
さてここで、主人公が初日、壁面にビラ貼りをしているとき、脇に置いていた自転車に眼をつけて盗もうとする二人組の泥棒の見事なチームワーク(誉めるわけではないけど)の手口を見て、私は自分自身が被った盗難を思いだしたのだ。
もう、20年くらい前か、出張がえりの東京駅新幹線乗車券売り場。自動販売機で帰りの新大阪行き「特急券+乗車券」を買おうと、確か現金2万円を投下した瞬間だった。
脇に一人の男が突然登場して「大宮行きのホームはどこですかね?」と訊いてきた。瞬間、私はその男の方を向いて「大宮行き?えっと、それは、あのー」みたいな返事をして自分の手元から視線を離した。
私の返事を聞くふりして、男はさっと行ってしまった。
やがて、視線を自販機の釣銭口に戻したら、肝心の釣銭がなぜかない。切符はあった。おかしいな、自販機の故障かな、と思ってもう一度販売機全体を見わたしたが何も変わったふしはない。おかしいなぁ。
「しまった」と気付くのがあまりに遅かった。
そう言えば、先ほど男から声を掛けられたとき、私の反対側にも、もう一人別の男がすぐ傍にいた。この間、わずか5秒くらいだったか。二人組の釣銭ドロボーだった。
あまりにも腹が立ったので、駅員さんに申し出たが「そうですかぁ、よくあるんです」で終わり。仕方なく帰路に就いた。
この映画でも主人公が自転車を失敬され、犯人をおっかけるものの、もう一人の男が違う方向に主人公を誘って見事に主犯を逃がしてしまう。
その手口を観て、思わず自分自身の東京駅での体験を思い出してヘンな感心をしてしまった。
このやり口、よく似てるなぁ。万国共通か。
自分自身、これまで自転車も何回か泥棒されているし、バイクも一回盗難にあったことがある。
この映画の通りで、バイクのときは警察に届けたけども丁寧に書類「受理」してくれただけ。人によれば「今頃アジアのどこかか、ロシア行の貨物船に乗ってるかも」という話しだった。
それでも、この主人公のような貧苦は今の日本にもイタリアにも少ないだろう。まったくついてない男だし、連れ添う男の子(素人だというけど、素晴らしい演技の子役だ)がお父さんを助けて、なんとか自転車を見つけようとけなげに協力する姿が、これまたあどけいないだけにあわれで共感を誘う。
主人公の妻が「占い師」みたいなおばさんに思い切って相談する。普段は迷信をバカにしているが、まさに「溺れる者は藁をもつかむ」で占ってもらうのだが、やはりこの占い師、まったくインチキ。その子供だましのご宣託も役にたたない。
無知で貧しい人々のわずかな小銭をかすめ取る詐欺師、というわけだ。敗戦後に怪しげな新興宗教が勃興した日本の事情に似ている。
ここまで来ると、誰しもが貧しい父子の境遇に同情して、スクリーンから眼が離されない。
この追跡劇で父子はさんざん苦労するのだけど、私が印象深く思ったのは、泥棒が盗んだ自転車を売る役割分担をしたらしい老人が父子の追跡を逃れてカトリックの教会に逃げ込むシーン。
老人もまた失業者なのだろう、無料で散髪をしてもらい、お祈りに合流する人の群れの中にいる。
実は教会の施しを受ける身の上なのだ。
主人公はなんとか自転車を取り返すため、老人を問い詰めるが、それはお祈りの真っ最中という光景。お祈りの場面で集まっている人々は皆、とても貧しい身なりの人が多い。
だが、最前列でてきぱき働くボランティアの婦人たちはとても良い身なりだ。この貧富の落差は見逃しがたい。
ここで父子の追跡は、お祈りを巻き込んでのドタバタ騒ぎ。カトリック国でこんな場面をあえて撮るのは、この時代、かなり冒涜的だったのではないだろうか。
結局父子は老人を見逃してしまう。
次は犯人とおぼしき若者を発見、追跡する場面。
途中で若者が親しく出入りしているのであろう娼館の中を、娼婦たちも巻き込んで運動会のようにおっかけるドタバタ場面。しかも子連れなのだ。
やがてくだんの若者は住処の貧民街に逃げ込んだ。
ところが、そこの住人は皆、若者の身内だし、その母親もさすがにここの住人らしく腹が据わっている。巡査が調べても大げさな身振り手振りで「うちの子はとてもいい子。そんな悪いことはしない!」と言い張る。
さらにはマフィアみたいな顔役も登場してくる。もめごと処理が彼らの役割だとわかるのだが、「なんだ、なんだ」とやってきて主人公は「おととい来い!!このアホウ!!」みたいなあしらいを受ける。
立ち会ってくれたおまわりさんも「証拠もないし、現行犯じゃないから」とあきらめ顔。
面白いのは、くだんの若者がなにやら「発作」を起こした振りをして皆から介抱され、いかにも「被害者」を演じるシーンだが、これも常套の手口なのだろう。
警察権の弱い貧民街ではマフィアが秩序を担っている様子が垣間見える。弱い者同士が護りあっているのだ。
そこでは、見知らぬよそ者の「言い分」なんか通用しない。こうして貧しい庶民は相互扶助して生きているのだ。このあたり、終戦直後の日本にも一脈通じるのではないかと思った。
この時代にお世話になった「ヤクザ」を、今や権力化した警察が恩義もなく掃除しようとしている、という指摘もある。
結局、父子は惜しくも自転車を取り返し損なってしまう。
とうとう主人公は、それならこんどは他人様の自転車を失敬しようと企てる。
子供に見せないように先に帰らせて、ことに及ぼうとするのだが、子供は折悪しく夕方のラッシュで込み合う乗り合いバスに乗車できないので戻ってきた。
そうとは知らず父親は慣れない窃盗を試みるものの、あえなく逃げ損なう。皆から取り押さえられ小突き回されながら、連行される。その父に取りすがって「パパ!! パパ!!」と泣きじゃくる子供。
これを見て自転車の持ち主が「今度だけは許してやる」とういうことになったのだが、子供の見ている前で、父親として最も惨めな姿をさらしてしまった。
まさに「窮すれば鈍する」さながら、ドジな話だが、観ているほうは、もうとっくに気の毒な父子にすっかり感情移入しているから、まるで自分のことのようにつらいシーンだ。
そして、黄昏の雑踏の中、父子してさめざめと泣きながら帰路に就く姿はあまりに惨め、痛々しくて気が重たかった。
親子はそれでもしっかりと手をつないでいる・・・・・。
社会の片隅に追いやられた弱い者どうしが小さなものを奪い合う惨めさ。なんともやりきれない不条理さが心に迫ってくる。その鬱屈した怒りは間違いなく「社会」「体制」に向かうだろう。
正義感のある人ほど、「許せない」と思うのが自然だ。
誰も自ら好んで「貧困」を招いたのではない。
ここに監督の製作意図は十分に達せられたといえる。後味の悪い映画だが、時代を反映していると思った。