「つるのはし」縁起(2)

<猪甘津(いかいのつ)橋>

ところで、大阪で何回か引っ越しをして、今住み着いている住居の近くに「小橋(おばせ)」という交差点がある。正確には「天王寺区小橋(おばせ)町」。

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なんでこんな読み方をするのか不審に思って、この地名の由来を調べてみたところ、なんと「日本書紀の仁徳14年の条」に出てくる由緒ある地名であるとわかった。記録の上では日本史上で最古の橋の地名に由来するという。

「日本書紀」の仁徳天皇14年11月の条には
「猪甘津(いかいのつ)に橋為(わた)す。即(すなわ)ち其の處(ところ)を號(なづ)けて小橋(をばし)と日う」
と記されている。

また、ここに記されている小橋の「猪甘津(いかいつ)の橋」が、現在の生野区内にかつて流れていた「百済川」にかかっていた「つるのはし」であった、との伝承が江戸時代からあるのだそうだ。

「猪飼野」という地名は養豚技術を持った渡来人が住んだところから名づけられたという話も聞いた。
今日の天王寺区、東成区、生野区、東住吉区、平野区にまたがる平野部に相当するらしく、かつては低湿地帯がひろがっていたようだ。その中を「百済川」が複数分流し、ゆったり蛇行しながら南から北へ流れていたらしい。

百済川は、奈良県から大阪湾に流れる「大和川」の本流だった。かつて大阪湾が河内平野の奥まで入り込んでいた時代には、もっと大きな川であったようだ。その古代大阪湾に「小橋」を含む「上町台地」は半島のように突き出ていたそうだ。猪飼野はその東側の低地に位置する。さらに昔は河内湖の西端だったようだ。

国土交通省近畿地方整備局の説明によると、

「古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣の異なる地形であった。
この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。(これが河内湖 筆者注)そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。

6000~7000年前の河内湾
弥生時代の大阪湾
1800~1600年前

仁徳天皇が行ったという堀江の開削は、洪水対策と水運発達に役立った。
645(大化元)年に始まる「大化の改新」により、大阪は歴史の表舞台となった。難波津は政府の港として外交の基地、献納物の中継点・集散地、水上交通のターミナル、警察、軍事の拠点として発展したとのこと。
小野妹子で有名な初期の遣隋使船もこの水路を利用して出発していったそうだ。

確かに日本史で概要は学んだように記憶するが、まさかこのあたりがその古代の由緒ある中心地のひとつだったとは思い及ばなかった。今の大阪とは、あまりにも景観が違いすぎるからだ。

仁徳天皇時代に開削工事が行われ「堀江津」ができたという記述が歴史的事実なら、現在の大阪市を東西に分断するような、かなりの大土木工事だったと思う。
たぶん仁徳天皇一人に仮託した伝説なのだろう。

大和川下流

大和川や百済川の水路を利用して大阪湾から飛鳥方面に向かう水運ルートがあったようだ。

<つるのはし>

さて、捜してみると、その「つるのはし」は生野区内に史跡が現存していた。(文末写真)

そこの説明文によると、地名「鶴橋」の由来となる「つるのはし」は、往時この辺りに鶴が多く集まったところから「鶴の橋」となったとのこと。今日の、住宅が密集した下町風景とは、まったく異なる景観だったことになる。

かつて、ここには「百済川」が流れていて、その川に昭和の初期まで「つるのはし」がかかっていた。
「猪飼野」はまた別名「百済野」とも呼ばれていたらしい。

「百済川」は後に「平野川」になり、洪水による被害を軽減するため江戸時代(宝永年間)に実施された大和川の付け替え工事によって細い支流となり、更に大正から昭和期にいたる近代の開削工事で、今日見られるような一直線の「平野運河」になった。

平野運河
現在の平野運河

そのときに「つるのはし」は消失した。
遺蹟だけが、ささやかな記念公園として残されたのだった。

大正時代、この平野運河掘削工事のときに、多くの済州島出身者が出稼ぎで住み着いたという。昔からの「百済」という地名が残っていることも含め、興味深い経過だが、朝鮮半島との縁が深い地域なのだ。

隣接する「コリア・タウン」もそうした人々のための市場として発生したものらしい。在日の方々の努力もあって、商店街も立派に整備され、今や大阪の名所だ。珍しい朝鮮食材が店先に並んでいる。

ところで、江戸時代末期の浮世絵師の長谷川貞信の「浪速百景」という浮世絵にこの「つるのはし」の絵が残っており、絵の中の添え書きに、かつてこの橋が日本最古の「小橋」であったという伝承が記載されている。
その絵が神戸市立博物館に現存しているらしいというので、神戸に行って学芸員にお願いしてそのマイクロフィルムを拝見させてもらったことがある。

ただし、「つるのはし=小橋」はあくまで江戸時代の「伝承」で、仁徳天皇の時代とは1000年以上の開きがあるから、真偽のほどはわからない。
明治時代の末に急速な宅地化が進行して、今日のような密集した下町になったのだそうだが、幕末の風景とはまったく異なることがわかる。

つるのはし

長谷川貞信 難波百景から「猪飼野つるのはし」

とはいえ、この「猪飼野」という地名は昭和40年代まで町名として存在していた。中世は四天王寺の荘園、さらにその前の律令時代には「摂津国百済郡」に含まれていたようだ。今もあるJR貨物駅「百済駅」、「百済商店街」などの地名が、その残滓と見られる。

猪飼野橋
生野区内今里筋に残る「猪飼野橋」の地名

<古代史を見る眼>

さて、ここからは想像だが、日本書紀の記述どおり、この猪飼野の「小橋(おばせ)」が仁徳天皇時代に、ここに川があって橋をわたしたことからの地名として残ったのは、よほど大切な交通の要衝であったからだと思われる。

そういえば飛鳥・奈良時代の首都・副都であった大阪市中央区の「難波の宮」(現在も発掘作業が続いている)の朱雀門から一直線に南下する朱雀大路は堺方面で竹之内街道に接続する。この竹之内街道は大和川を沿って生駒山系を越え飛鳥に繋がっている。
古代の「国道1号線」といわれる由縁。
最近は景観を鑑賞しながらスポーツサイクルで走る人が多い。

「街道歩き旅.com」さんより
「街道歩き旅.com」さんより

大陸や半島から瀬戸内海を通ってやってきた渡来人たちは、大阪湾の「堀江」などという船着き場、すなわち「津」で陸揚げし、眼の前の難波の宮で挨拶を受け、今度は旅装を変え、陸路で南下し現在の堺市内を左折して大和に至るというコースを歩んだのだろうか。だとすると、その道筋の始めに「小橋」が当たるのかもしれない。
『堀江』という地名は今も大阪市内に残っているし、大土木事業を行ったとされる仁德天皇の皇居跡が,市内中央区にある「高津宮」だそうだ。

ここは上町台地の西側傾斜地になるだろうか。豊臣秀吉が大阪城三の丸をつくるときに、この地に移設させたものらしい。
一方、「後進国」と見下げられたくないという「国威発揚」意識もあって、海上からも望見できるように、まさに「小橋」のすぐ南側に「四天王寺」を聖徳太子が建立した。「天王寺」とう地名の由来なのだろう。

あくまで素人なりの空想をめぐらしたに過ぎないのだが、こう考えるとこのあたりは何かしら古代史的なゆかりを感じる。
つまりは、この地域は渡来文化が伝わった歴史的な道筋、川筋にあたるのではないだろうか。有名な「熊野街道」も大阪市内を南北に縦断する。これは平安時代以降の熊野本宮(和歌山県田辺市)巡礼の道らしい。

小橋の交差点から南方約100mくらいの天王寺区細工谷(さいくだに)では7、8世紀頃の遺跡が発掘調査され、そこから「百済寺」とか「百済尼寺」と記載された土器も出土している。同時にそのとき、日本最初の銭である富本銭も出てきた。
物好きな私も、さっそく発掘の現地説明会に参加してみた。この遺蹟は平安時代まで続くと、学芸員が説明してくれた。
古代史への想像が膨らむ。仏教を伝来した渡来人が住み着いていたのだろうか。
彼らが日本文化の形成に大きな貢献を果たしたことは間違いない。

いずれにせよ古代において、この地域は大陸や朝鮮半島の先進文明を真っ先に受け入れ、渡来文化の花を咲かせたところであったことが偲ばれる。

日本の歴史と社会を構造的に理解するには、「東京中心」の通弊をいちど外す必要があるのではないだろうか。

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