「方丈記私記」を読む(7)                現実拒否の伝統

一方、「方丈記」に綴られる長明の
「いわば彼の無常観の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに熾烈な政治への関心と歴史の感覚である。」(117ページ)
なのだが、それは不幸にして世に受け入れられず(ひょっとして家族・親族からさえも見放されて)、さんざん見苦しくあがいた挙句に遁世という結果にあいなったのだという。

たとえば、出家の直前には人づてに鎌倉まで下向して将軍実朝に面会を実現している。そこで歌人将軍とは大いに気が合ったという記録もあるが、それ以上には長明の人生は発展しなかった。その直後にはとうとう出家遁世。

しかし、決して完全に諦めがついたのではないので、長明は未練がましく度々都を訪れ、世の動きを観察している。遁世というが、実は俗世から完全に離れているのではない。仏道修行もカタチだけ。
考えてみれば、「院政」などという同時代の政権の在り方も、仏門に入った上皇とか法皇などが世俗的な実権を握るという、変則的な権力構造が堂々とまかり通っていた。
そのうえ、比叡山には僧兵が跋扈、しばしば朝廷にむかって強訴に及んだという。仏教界じたいが混乱の極みにあったのだろう。
おなじく長明も形の上では出家の身ながら、俗世界への未練を少しも隠さない。
だから
「私は思うのだが、あの当時にあって、かくまでのウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふれくされ、厭味を、これまた大ッピラに書いた人というものは、長明の他にはまったくいなかったのではなかろうか、と。少なくとも私は他に例を知らない。これがもし長明の『私』であるとすれば、そうしてそれは彼が自ら書いている通りに、それが60歳になっての彼の『私』なのであったが、もう一度繰り返すとして、これが彼においての『私』であったとすれば、無常とはいったい何であったか?好き放題の言いたい放題と言えぬこともないであろう。要するにおそろしく生ぐさいのである」(207ページ)
ここからは逆説になる。
「それは、世を捨てたからだ、というのが私の答えであり、世を捨てたればこそ仏道に対してさえも文句をつけることが出来たのである。仏道もまた「世」であったのである。そういう異様な弁証法がこの「私」の背後にあると思われる。」(同)
もともと神官の家に生まれた長明の出家は、いわゆる仏道を求める覚悟のほどがうかがわれない。「出家」は、いわば流行の生活スタルに過ぎなかったかのようだ。

これは同時代の藤原定家たちのようなエスタブリッシュ(朝廷一家)の「世」に対する態度とは異なる。「朝廷一家」の態度は藤原定家の『明月記』中の言葉

世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎(せいじゅう)吾ガ事ニ非ズ。

に象徴されているように、完璧なまでの現実拒否なのだ。
「彼らが詠むところの歌は、すべてもろもろの家集や草子、巻物による、つまりは文学による文学なのである。現実世界にはなんのかかわりもありはしない。時代の惨憺たる現実などは、いや、それを遮断するための詩なのであり、従って時代の言語もまた彼らの文学には何の関係もなく、定家にいたっては、三百年前のことばを使えというところまで行く。人工言語による人工歌である。」(141ページ)
政情不安と未曾有の厄災のなかで、都が荒廃に帰しようが人民が塗炭の苦しみに沈もうが、まったく意に介しない貴族精神。
『新古今和歌集』の歌人たちは、ひたすら本歌取りに明け暮れ、現実から遠い過去の言葉の世界に閉じこもる。
「京の死者の屍臭は、御所のなかにも当然達していた筈である。しかし、如何なる意味においても、現実は芸術に反映することがなかった。長明のように生者の眼によって現実が直視されることがなかった。何故か?現実を拒否し、伝統を憧憬することのみが芸術だったからである。・・・・この二十数年間、千載集から新古今集にいたる間の、六百番だの千五百番だのという、途方もない歌合といわれる文学的行事の、そのどこに飢饉、屍臭、戦乱、強盗、殺人があるか。どこにも絶対にないのであるから、世界の文学史上、おそらく唯一無二の美的世界である。異様無類の『夢の浮橋』である。」(同218ページ)
おそるべき退廃としかいいようがない。
ほどにも、神州不滅だとか、皇国ナントヤラとかという、真剣であると同時に莫迦莫迦しい話ばかりが印刷されていた時期は、他になかった。戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。・・・・・人が
しかし、この
「本歌取り、すなわち伝統憧憬がかくまでに極端なことになり、生者の現実を拒否するという思考の仕方は、しかし、七百年のむかしだけのことではないのである。一九四五年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらにごろごろしていた』頃」

長明はそうした世界もいちおうは経験したが、そこからもはみ出ていく。

「若、念仏ものうく、読経まめならぬ時には、みづから休み、身づからおこたる。さまたぐる人もなく、また恥づべき人もなし」(207頁)
つまり、あらゆる責任を放棄する立ち位置を得たというのだろう。誰に気兼ねする必要もない気ままな自足生活。

 

 

 

 

 

 

なんとなく、私は、失敗った、と思った。ここに、失敗った、というのは、恐らく作家としての私のこれまでの行き方とかかわりがある。この虚無の音を、自分にも通うものありと認めたならば、作家としてのこれまでの私は、これまで通りではやって行けなくなるのではないか――そういうことを本能的に、私は感じていたと思われる。

虚無。これをわれわれの生活に根差した、リアリティをもつ日本語で云いなおすなら、無常、諸行無常の感というようなことになり、われわれの無常感がいのちに対する優情にみちたものであることは、私にもいくらかわかっている。けれどもそれは恐らく歴史を否定し、人間のつみかさねて来た歴史を、「歴史」としてではなく、そのときどきの人間をとりまいて無気味な黒光りを発する、単一の、単色の背景と化してしまうようなものである。
……そして日本の思想のうち、もっとも陰影豊かでリアリティに富み、民衆に対しても浸透度の深いのは、この「歴史」を形成しない凹型の思想なのである。これといかにして戦うか。どういう方法で……? 私自身の内部に於ても、戦う方法よりも、むしろ私自身にも内在するこの思想の方がふとりつつあるのを感じる。[……]私は、これに負けてしまうだろうとは思っていない。これと戦って勝つことの出来る方法が、どうにもふとって来ないということなのだ。 (『インドで考えたこと』)

 

親鸞は宗教者として真の発足をするにあたって、つまりは教行信証の末尾に、朝廷一家に対する絶縁状、激烈な弾劾を叩きつける。
「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ。」
主上は天皇、臣下は貴族たちである。そうして、今様に言えば民衆のなかに入って行く。

中略(…そして、最後は次のように結論しています。)

「身みずから、罰せられて世に出て衆生救済そのものと化した人としての親鸞が見えている」

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