「なかなかお迎えがこんなぁ」
父方の祖母は最晩年、母や叔母に看取られながら病床でそうつぶやいたという話を思い出した。
死に臨んで、いったい誰が迎えに来るというのだろう、ひょっとしして先に亡くなった祖父のことかなと想像していたが、鴨長明作という「発心集」を読んで、私はハタと祖母の言葉を思い出した。
明治生まれの祖母が「お迎え」というのは、阿彌陀佛のことだったのだ。
この仏さんはあちこちでよく見かける日本で最もポピュラーな仏のひとつだが、まさか21世紀の今、それが西方十万億土に実在するなどと確信しているような人は少ないだろう。ましてや死に臨んでその「お迎え」があるなどとは想像しがたい。
こうした浄土信仰は、父母の世代ですでにかなり希薄になっていたと思う。
大正末の世代であった父母は、それぞれ戦前の高等教育を受けた人だったが基本的に神仏にはあまり信を置いていなかったと思う。
母は博多のミッション系の女学校出身だが、その愛校精神はどちらかというと、貴族的な雰囲気を好んだからだったと思う。学徒兵だった父は、すでに述べた通りわずかな戦場体験だったが「馬鹿な戦争」(父の言葉)を経験したからだろうと思うが、神仏の加護などきっぱり否定する無神論者になって復員した。むしろ「いわしの頭も信心から」などと言って宗教などはハナから迷信と同列扱いだった。
それは、日本史上未曾有の敗戦を青春時代に経験した世代に広く共通だったのではないだろうか。
祖父母の時代まではかろうじて「生きていた」神仏への信仰。その守護が本当にあれば、あんな悲惨な敗戦など日本人はしなくて済んだはずだ、と思ったのではないだろうか。名古屋の父方曽祖父などは「日本は神国だから決して負けない」と心底信じていたそうだが、それが原因だろうか、名古屋大空襲であっけなく先祖伝来の家財産もろとも灰燼に帰したとき、大いに気落ちして死んでしまったと伝えられる。
もちろん積極的に無神論を鼓吹したわけでもないが、阿彌陀さんの話を父母や叔父叔母が私たちにしたことは一度もない。
むしろ、「地獄の沙汰も金次第」で、そもそも神仏などは胡散臭いものだった。なるべく敬して遠ざけていたように思う。
そう考えてみれば明治世代との落差は大きいと思う。その間に昭和初期の軍国時代の暗い記憶・・・・母の述懐によれば「青春の犠牲」を強いた・・・・が挟まれていたのだと思う。叔父も「明治世代がむちゃくちゃしたから、我々大正世代は本当にえらい目に会った」と述べていた。あの未曽有の敗戦が、日本の伝統的な神仏への決定的な懐疑を産んだのかもしれない。
しかし平安末期の「発心集」を読んでみて、「念仏」の遠い源がこれほどまでに長い歴史を遡るのかと再認識した。
この古典作品は、同じ民族の過去の仏教説話だが、21世紀に生きる自分にはなかなか理解に苦しむエピソードが多い。
例えば、発心集第五「成信、重家、同時に出家する事」を紐解いてみると
「兵部卿致平親王の御子成信中将と、堀川右大臣の子にて重家の少将と聞こえる人、時にとり世にとりて、類なき若人なりければ、照る中将、光る少将とて同じさまにぞいはれ給いける。この二人、同じ時に心を発して、世を背かんことをいひ合わせ給う。志は一つなれど、発心のおこりは異なりけり。」
この二人の輝くばかり有望な貴族の若者については、それだからこそ「同じ時に心を発して、世を背かんことをいひ合わせ給う」と、発心の潔さを高く宣揚している。
「光る少将」こと藤原重家は権勢を極めた藤原道長の晩年の病み衰える姿をみて、この世をはかなんだことが出家の原因だという。周知のように道長は摂関政治の頂点を極めた人物で
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」
という歌を詠んだ、あの御堂関白のことだ。

一方の「照る中将」源成信は、朝堂での四人の才気煥発な先輩高官たちの会議の姿を垣間見て、「司、位は高くのぼらんと思はば、身の恥を知らぬにこそありけれ。この人々には、いかにも及ぶべくもあらず。さて世にありては何かはせん、後の世を願ふべかりけり」
という具合に、自らの力の限界を感じてあっさり現世(あさましい出世競争)を捨てる志を起こしたという。その諦めぶりも、拍子抜けするほどさっぱりしたものだ。
こんなエピソードを発心集に収録した意図は、鴨長明の不遇な人生模様を反映しているのだとも言う。
二人の出家先は比叡山ふもとの三井寺。申し込まれた阿闍梨ですら
「『あたらしき御様なるのみにあらず、名高くおはするの身なれば、便なく侍りなん』とていなびければ」
(若い盛りのもったいないご様子の上、名士でもいらっしゃる。賛成いたしかねます)「角川ソフィア文庫396ページ 訳文」
と、将来性のある若い公達の出家を危ぶんでいる。なにしろ、
「中将は二十三、少将は二十五とぞ。」 という若さ。しかし二人の出家の決意は固く、
「さしもすぐれ、さるべき人だにもあたらしかるべきを、かく同じ心にて形をやつし給いつれば、阿闍梨涙を落としつつ、かつは惜しみ、かつはあはれみけり。」
というあんばいで遁世の志を情緒的な感動を込めて受容してしまう。少しばかり芝居じみてもいる。
こうした態度には、時代風潮として「出家遁世」がある種の「流行」だった趣すら感じられる。明らかに鴨長明はふたりの「発心」を讃嘆している。あたら将来性のある身を、潔く捨ててしまう。
「人のかしこきにつけても、愚かなるにつけても、まことの道を願ふたよりとなりけんこそ、げにあらまほしく侍るけれ」
現代語訳「人の賢いにつけ、愚かなのにつけ、どちらからしても真の仏道心を願うきっかけとなるのは、本当によろしいことだと思われます。」(角川文庫 「発心集上 397ページ」)
なぜ、こんな退嬰的な美意識が「真の仏道心」になるのだろうか。
そもそも朝廷の手厚い庇護を受けている三井寺に出家しても、生活に困ることはない。伝えられる初期の釈迦教団のような厳しい托鉢行とは、あまり関係ないように見える。
「発心集」は、まるで貴族の嗜みのような「世捨て」を繰り返し讃嘆してやまない。同じ趣旨のエピソードが綿々と続くのだ。
そしてひたすら念仏をして後世を願うというのだが、そうした精神的な怠惰こそ、かえって「末法の様相」をいっそう深めた一因かもしれないと疑うのは僻目だろうか。
古典が嫌いだった高校生の頃、日本の平安古典を青春時代に学ぶことに懐疑を持ったものだ。あまりに厭世的な作品が多いと。いまは、そう単純に決めつけたものでもないと考えるが。
身も蓋もなく言わせてもらえば、荘園制度に支えられた有閑階級の、たんなる「社会的責任放棄」に見える。封建制社会の指導的立場にあった貴族たちの安易な悲観、退廃と無責任が、かえって末法の様相を強化したのではないだろうか。