映画「ヒトラー最後の12日間」     究極のニヒリズム 

ヨアヒム・フェストの「ヒトラー最後の12日間」(2005年岩波書店)を読んでみて、著者のヒトラー観がよくわかった。
映画では異様な興奮状態のヒトラーの姿を強く印象づけられるので、ややもするとそれが安易にパロディー化されて、巷間に出回った。たぶん、軽薄な笑いを誘うことに消費されただけではないだろうか。
やはり、史実をなるべく正確に知るためには、映像だけではなく文字で補う必要があるのだと思った。著者は1926年(昭和1年)生まれでヒトラーの研究者として名高い。自らがドイツ国防軍の一員として従軍しフランスで捕虜になったようだ。

フェスト著「ヒトラー」
フェスト著「ヒトラー」1973年

フェストが指摘しているように、ナチズムとヒトラーの戦争犯罪については従来からドイツ国内でもかなり複雑で深刻な議論が長く続いているようだ。客観的にみて、日本人一般よりも真摯な態度だと思う。

同著でも例えば、
「・・・・ヒトラーおよび、ヒトラーの躍進を可能にした、あるいは少なくともそれに有利に働いたイデオロギー装置は、いかなる線で過去と結びついていたのか」(同38-9ページ)
と問題意識を換気し、
「・・・・以上のような考察は、特に、いわゆる『ドイツ特有の道』論争[ナチズムの原因をドイツ社会の特殊性に探ろうとする考え方をめぐる一連の歴史論争]において、果てしない議論へとつながっていった。・・・・・」(同39ページ)
と振り返りながらヨアヒム・フェスト自身は、ヒトラーの性格を
「・・・・ヒトラーは、歴史上、類例のない自己中心主義によって、この国の存続をみずからの人生の時間と一体化させた。1936年のラインラント占領から、1939年春のプラハ占領に至るまで、初期のヒトラーは向こう見ずだった。もっともラインラント占領の時には、自らの命運を案じて、二十四時間、震えつづけた。しかし、そうした初期の行動以上に土壇場に至って、ヒトラーは、政治世界に漂着した賭け事師だったことをはっきりとさらけ出した。それも『すべてを』賭け、そして負けた賭け事師だったことを。その背後にかいま見えたもの、それは『虚無』だった。」(47ページ)
と端的に指摘している。

こうしたヒトラーの描き方について、同著巻末で解説「ヒトラーをめぐる現代ドイツの歴史学」を担当した歴史学者・芝健介氏は
「・・・・・映画「ヒトラー 最後の12日間」が独裁者の破滅していく姿をきわめて人間的に描き出したことでドイツ国内のみならず欧米世界でも一種物議を醸している。・・・・映画の人間ドラマがもつ同一視、一体化への吸引力から観客は逃げられないのではないか。こういう懸念は、真っ先にドイツ国内の少数派をなすユダヤ系の人びとから表明されている。」(213ページ)
と重要な指摘をしている。
いかにもヒトラーは人間だ。しかし、それを「人間的」に描くことに潜む危うさを撞いて突いているのだろう。
本来は唾棄すべき「悪魔」を、ひとつのキャラクターとして認めてしまい、場合によっては愛着感さえ持ちかねない錯覚・・・・・映像ストーリーに潜む特有の機能に警鐘を鳴らしているのだろう。

ナチズムとヒトラーをめぐる歴史論争は、まだまだ多岐にわたる論点・視点・分析のあることが想像される。

フェストの立場にすれば、
「初期の行動以上に土壇場に至って」ヒトラーが、「政治世界に漂着した賭け事師だった」ことをはっきりとさらけ出したのが、総統地下壕での「最後の12日間」だったということなのだろう。
そして、そうしたヒトラーの精神の中核にはまさに「虚無」の深淵があった、というのだ。
この指摘は、本書のなかでたびたび繰り返される。

「・・・・演説にせよ行動にせよ、ヒトラーが残したものを詳しく調べていくと、あらゆる場所に、彼の全観念世界を支配していたあまりにも根深いニヒリズムの基調が浸透していることに気づかされる。」(203ページ)
絶対服従の対象である独裁者━━「総統」の指導原理が、「根深いニヒリズム」であるということは、いったいどういう社会現象を招くのだろうか。ヨアヒム・フェストは続ける
「・・・・この政体は、支配権を得て以来、一貫して『生か死か』の選択を迫るような危機を意図的に招き寄せ、それによって大きな高揚感を繰り返し作り出してきた。」(88ページ)
一種の集団催眠だろうか。

なるほど、あのナチスの暗い情念に満ちた巨大イベント、その軍隊的な統制規律への偏愛、ヒステリックなヒトラーの演説などは、こうしたニヒリズムに支えられた異様な高揚感を盛り上げ、これををドイツ人はこぞって享受していたのだろうか。また、逆に言えばワイマール国家破綻のなか、極端な閉塞状態に追いつめられ誇りを奪われたドイツ人の、身も焦がすような憤怒の爆発に、ヒトラーが的確な導火役を担う才能を持っていたのだとも言えるのだろう。
そして、「合法的に」全権を委任され独裁制を樹立したあと、それはニヒリズムの必然的発展として、ヨーロッパ全域を血なまぐさい大戦争に巻き込み、障害者やユダヤ人をはじめ多くの罪もない少数者を残酷きわまる奈落の底に突き落した。一種の「民族的」な自暴自棄なのだろうか。

戦争は欧州では5000万もの犠牲者を出したという。その究極の首班の正体が、大戦末の首都ベルリン陥落の断末魔に見て取れるという。この土壇場の地獄を共有した、ドイツ人将校の暗い証言を引用して述べている。

「・・・・死にゆく首都の廃墟と地下室で、甚大な被害を出しながら続けられた苛酷な戦闘に参加した多くの人々は、こうしたすべてのものから、比類のない慰めを引き出した。あるドイツ軍将校はこう回想している。『それはこれまで一度も体験したことのない醒めた高揚感だった。名状しがたい信念、勝利への確信、死に向う覚悟が、われわれの戦闘を支えていた。・・・・・ジューコフ(ベルリン攻略のソ連側将校)がこの首都を占領するならするがよい。われわれはもうピストルで首都を守るしかないが、それでもジューコフには高くつくことになるだろう』。」(88ページ)

げっべルス
宣伝相ゲッベルス

戦争を知らない世代の感覚では想像が追い付かないような、この屈折した異常心理が、当時のドイツの人々を破滅に駆り立てていたことになる。
例えば、「焦土作戦=ネロ指令」もそうしたある種倒錯した心理ともいうべき文脈のなかで読み取ることなのだろうか。
これは45年03月19日、ヒトラーにより発令された破壊作戦に関する命令で、おどろくべきことに、国内のインフラや資源、産業施設等を、敵が入手する前に完全破壊することで、かつてローマを自ら焼いたローマ皇帝ネロになぞらえて『ネロ指令』とも呼ばれた。
つまり、自国民に対してすら無慈悲きわりのない破壊命令が国家崩壊の断末魔で発令されたのだから、狂気の沙汰としかいいようがない。
更に眼を蓋いたくなるのは、もはや誰の眼にも明らかな首都ベルリン陥落の巷で、裏切りのレッテルを貼って自国民を無差別に虐殺した親衛隊(Schutzstaffel )の粛清。

ヒトラーの側近であったヴィルヘルム・モーンケSS少将を例にだして
「・・・・・この政権のなかでも、もっとも過激な親衛隊の一人であったモーンケが表明したのは、むしろ『世界の救済』を掲げるあらゆる主義主張の背後に、まごうことなく響き続けてきたあの際限なき破壊への意思であった。ほかならぬこの意思こそが、ヒトラーおよび彼に忠誠を誓った部下たちについての本来の真実を物語っている。・・・・・事実、ヒトラーの側に憤怒と衝撃しかなかったというのは、当たらない。そこにはむしろ、破滅的状況の中でこそわき上がる複雑な達成感があった。それがあったればこそ、ヒトラーは迫る敗北を歴史的な滅亡スペクタクルとして演出できたのである。」(153ページ)
まるで血なまぐさい悲劇への陶酔のような、すさまじい倒錯現象があったことになる。そういえば、陥落直前の総統地下壕でも酒宴が催され、踊り狂うエバ・ブラウンの姿があった。

この破壊への意図を、ベルリン陥落の直前の3月の記者会見で宣伝相ゲッベルスは、以下の通り代弁して憚らないというのだから空恐ろしい
「・・・・もしわれわれが滅亡するものなら、われわれと共に全ドイツ民族が滅亡するだろう。しかもこのドイツ人の英雄的滅亡は、たとえ千年の時を経ようとも、世界史の筆頭を飾るほど誉れ高いものとなるだろう。」(153-4ページ)
これは、一体全体どういう情念だろうか。
自国民を含むすべての人類に向かっての、悪魔のような破壊宣言なのだ。

振り返ってみると驚くべきことだが、そもそもナチス・ドイツが起したこの戦争の目的ですら、実に曖昧模糊とした動機であったとヨアヒム・フェストは言う。
「・・・・・資料によって裏付けうるあらゆる考察を総合すると、ヒトラーを最後の瞬間まで支えていたのは、まさにとぎれることなく堅持された、この破壊への意志だったといえる。」(159ページ)
「・・・・いずれにせよ、ほんとんど全世界を相手に意図的な悪意を募らせながら彼が開始した戦いには、いかにも特徴的なことだが、漠たる戦争目的すらなかったのである。・・・・・1941年2月、ソヴィエト連邦への侵攻は同年秋までに決着がつくと考えていたヒトラーは、迫りくる平和に不安を感じて、ヨードルにさらなる侵攻計画を『研究として策定』するよう要求した。その目的地はアフガニスタンとインドだった。」(162ページ)

これが事実だとすれば、形容の言葉も出ない。
ナチズムとヒトラーの仕業は、まさに人類文明への「悪意」そのものであったかのようだ。しかも自国民ですら例外ではないのだという。
だとすると、これはいわゆる「民族主義」などという言葉の範疇を逸脱する。

信じがたいが、このニヒリズムは、ひと言で言えば「生命破壊の衝動」とも言える。

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