ところで、河合隼雄氏が
「・・・・何とも不思議なめぐり合わせである。・・・・・一人の少女のたましいの世界を的確に描くことによって、たましいの世界が関連したときにしばしば生じる不思議なめぐり合わせが、そこに現れたことを、むしろひとつの必然として感じせしめる迫力を、この本が持っているからである。」(<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む83ページ」岩波現代文庫2013年)
と指摘している、「たましいの世界が関連したときにしばしば生じる不思議なめぐり合わせ」とは何だろうか。

河合氏は「たましい」を病んだアンナのファンタジーの世界に、同世代の女の子として登場した少女が、実は祖母マーニーであったことを「何とも不思議なめぐり合わせ」と指摘しているのだと思うが、こうした「不思議なめぐり合わせ」が「たましいの世界が関連したときにしばしば生じる」と述べている。それはたぶん、自らの豊富な臨床経験を踏まえて述べているのだと思われる。
私はこの「不思議なめぐり合わせ」を、マーニーからアンナに続く母子三代に引き継がれた「運命」「宿命」の糸ではないかと考えた。小説とはいえ、根拠の無い絵空事とは思えないリアリティーがあるからだ。
もういちど確認すると、そもそも「たましい」について同氏は
「・・・・アンナのような状態を理解するためには、われわれは、人間の心と体を結び合わせ、人間を一個のトータルな存在たらしめている第三の領域━━それをたましいと呼びたいと思うが━━の存在を考えざるを得ない。」(<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む」岩波現代文庫2013年)
と指摘していることに注目したい。
ここで「たましい」とは、一般に言う「魂」とか「霊魂」とかいうようなオカルトまがいの話ではなくて、ユング派分析家としての同氏がたどりついた独創的な概念であるようだ。その裏づけは豊富な臨床経験なのだろう。
ともすれば、「草葉の陰のマーニーが最愛の孫娘アンナの窮地を慮って化けて出てきた」というような、安っぽい因縁話が思い浮かびやすい。しかし私などが子どもの頃に、縁日の見世物小屋やお化け屋敷などでよく見聞きしたような「怖い話」の類などではないのだ。ここをきちんと区別したいので、「この話をいわゆる因縁話にしてしまわないだけの高貴さ」がこの作品にはあると、わざわざ言葉を足しているのだと思う。
一方で合理的に考えても、三歳児だったアンナに老いた祖母マーニーが自らの少女時代の思い出を問わず語りで聞かせたことがあって、それがファンタジー出現の機縁になったのだと推論することには、やはり無理があると言うべきだろう。世の中の仕組みを充分理解できていない三歳児が、老人の昔話を記憶しておいて、十二歳になって再現するなどということは考えられない。科学的な時系列の因果論で説明しようとする傾向が私自身も強いので、ついそう解釈したがる。
「たましい」とは、そうしたいずれも安直な因果論とは別の次元の、ある世界を示唆しているように思われる。従来の先入観を慎重に排除して考えるべきだと思う。
そして同氏は「たましい」と「ファンタジー」には深くて密接な関係があるという。
「・・・・たましいそのものをわれわれは知ることができない。たましいは何かにつけて明確に決めつけることに抵抗する。これがたましいだと決めつけた途端に、それは消え去ってしまうだろう。たましいそのものは捉えられないが、たましいのはたらきそのものは、常にわれわれの周囲に起こっており、それをある程度把握して他人に伝えるには、ファンタジーというのがきわめて適切な手段となるのである。」(ファンタジーを読む 講談社+α文庫1996年)
「思い出のマーニー」は後半で、マーニーがアンナ自身の突飛な夢想などではなくて、実在した祖母の少女時代にぴったり符号するというとてもミステリアスな事実関係を、いかにもイギリス文学らしい一種の「謎解き」で明かしている。まるで手の込んだ推理小説を読んでいるような展開だ。
「・・・いわゆる因縁話にしてしまわないだけの高貴さ・・・・」(同書)とは、少女マーニーの姿を通して生き生きと血の通った「たましい」のメッセージを精妙に描いていることなのだろう。
私たち読者はアンナとともに苦しみ、怒り、同情したり危惧したり、或いはマーニーへの愛情を疑似体験したりできる。そしてそのぶんだけマーニーが消え去るときの喪失感をたっぷり味わったあとに、二人の深い因縁を知らされ、心揺さぶられるのだ。
こうした「作品の力」を、河合氏は「むしろひとつの必然として感じせしめる迫力」と表現したのだ。つまりたましいの世界はまた、「運命」を司る次元なのだろうか。この場合、ファンタジーは根拠のない空想や作り話ではない。ある種の深いリアリティーを豊かに備えているのだ。
「たましい」とは、心と身体に分別される以前の次元にあって、そこはたぶん個人の意識を超えて(あるいは潜在意識下にあって)近親者や友人・知人あるいは他の生物にまで相互通底するような広がりをもつ領域世界を意味しているように思える。
だから孤独と閉塞の極みで「たましいの世界」にたどり着いたアンナに、たましいの側からのメッセージが「湿地の館」や「マーニー」と顕れたのではないだろうか。
しかもそれはアンナがマーニーの「孫娘」だったからだ。なぜなら、河合氏が「たましい」と仮に名付けた領域こそは、彼女を含めた一族に個有の「運命の所在地」だからなのではないだろうか。
ここでは運命とか因果や因縁という、まだ先入観のこびりついた言葉しか私には思い浮かばないが、実は従来の意味とはかなり次元の異なる領域を河合氏は言わんとしているように思う。アンナの境遇に則して換言すれば、「親の愛情に恵まれない」という「運命の連続性」とでも表現できるような要素が彼女のたましいの世界にあるのだと。
敢ていうと、仏教が説くような「空」や「業」の観念・・・・眼に見えない因果関係・・・・に近似するのかもしれないが、素人の私にはこれ以上論じられない。
それはこの世の次元ではめったに捕捉できないが、ときとして私たちの世界に起きる様々な「裂け目」に顕現してきているのだろう。この場合、「裂け目」こそがアンナの「症例」に当てはまる。そういう事例が他にもたくさんある、と河合隼雄氏は自らの臨床経験を踏まえて強く主張している。そうした、たましいの世界に接近するクライアントをたくさん見てきたからだろう。病むことに「積極的な意味」があるのだ。
いっぽう作品を通して、私たちもまた、アンナが見たファンタジーを絵空事としてではなくて、自らのたましい次元で読み取り、深く共感できるのだろう。
思うに、その扉は「感受性」なのだろうと思う。
もちろん、そうした「感受性」がもはや枯渇しつつある「おとな」・・・の部類に私も入るようだが。
そして21世紀のいま、本当の「人間の幸せ」を考えるとき、「たましいの世界」はとても大切なキーワードになりそうな予感を感じる。