見終わって、これほどしみじみとした哀感が胸に迫ってくる映画は少ない。
静かだが深い悲劇を描いた。一言でいえば、戦後の日本人の家族のありようが、果たして本当の幸せをもたらすのかどうか、鋭い問いかけがある。
その問いは民族や国境を越えた普遍性さえ獲得したようだ。
2012年に、10年おきに行われている英国映画協会の「世界で最も優れた映画50選」で、358人の映画監督が選ぶ監督部門で『東京物語』が1位に輝いた。
今ではすでに過去のものとなりつつある、日本的な情緒の映画なのに、海外で高く評価された。
多くの専門家が指摘している通り、「核家族化」「東京一極集中化」という家族の崩壊過程を、緻密に描ききったことだろうと思う。
それはまた、誰しも免れない現代の普遍的なテーマだからだろう。
映画を観た誰もが自らの胸に手を置き、自省せざるを得ないほどのリアリティーがあるからではないだろうか。
なかには、親不孝をしたと悔悟の念に捕らわれる人もあるかもしれない。
それほどに厳しいともいえる。
かく言う自分も、若いときに見た折には、起伏の少ないモノクロ映画だなぁという程度の感想くらいしか湧かなかった。なぜこんなに地味な映画が「名作」なのかよくわからなかった。
当たり前のことを描いたに過ぎない、と。私はまだ人生を俯瞰できる年齢ではなかった。
しかし、還暦を過ぎ、両親共に亡くした今、この映画を観るたびに人生のリアリティーを感じさせられる。やはり奥行きの深い作品なのだろうと思う。
今時のテレビや映画には、まるで取ってつけたような素人演技が氾濫している。俳優家業にも薄っぺらい「ポピュリズム」が蔓延しているからだろう。映画も、カネをかけた「駄作」では、資源の無駄使いに過ぎない。
それに比べ、さりげないしぐさで深い意味を見事に演じる役者がいた時代。見るたびに新鮮な発見がある。
いわゆる「映画」が頂点を極めた頃。確かに、日本映画を代表する傑作の由縁だろう。
ちょうど私がこの世に誕生した頃(1952~3年)に作られた。
従って東京の子供たちを訪れる老夫婦は、私たちにとっては祖父母、明治世代なのだろう。
登場人物も、私の父母の世代の俳優ばかりだ。
かろうじて笠智衆が「男はつらいよ」に登場する浅草寺の「御前様」として馴染み深いのだが、俳優としての笠の原型イメージが「東京物語」の老父役だったことをこの映画で初めて知った。当時49歳にして、実に見事な老け役だ。
多くの人が御存知だと思うので、ストーリーの詳細をあえて紹介するまでもないかもしれない。
70歳の平山周吉と68歳のとみ夫妻は、元気なうちに東京で成功した子供や孫子の姿をこの眼に留めようと、尾道からはるばる上京したのだった。新幹線のない当時、前日の寝台夜行に乗って翌日の午後にやっと着くという大旅行だったようだ。
服装からして季節は夏。
東京の街には夏祭りの音が聞こえる。団扇がとても効果的な小道具に使われている。蚊を追うしぐさなど、私たちの世代までが見覚えのある、懐かしい絵柄だろう。
ところが、実際に東京に着いてみると、期待とは大違いの現実が待っていた。
長男長女は自らの生活や仕事に精一杯。せっかく訪ねて来た老夫婦を、もてなす余裕が無い。むしろ甲斐甲斐しく親孝行するのは、次男の嫁・紀子(原節子)だった。紀子はひとり身だった。
両親をもてあました兄嫁(杉村春子)に頼まれて会社を一日休み、むかしの「はとバス」で老夫婦を東京見物に案内。
すっかり「お登りさん」みたいになった様子がほほえましい。


ここで感心するのは、嫁・紀子(原節子)が舅姑に使う言葉の美しさ。
「山の手言葉」というのか、親に対して、こんなにこまやかな配慮の立派な言葉使いがあったのだと感心した。
高層ビルはもちろん、東京タワーもスカイツリーもまだないから、銀座松屋デパートの外階段で、紀子が景色を見ながら街並みを説明する。周吉ととみは、鄙びた「尾道べん」で訥々と話しているところ。
義兄の家の方角を指差して地理を教えている紀子。
紀子・・・「お兄さまのお宅はこっちの方ですわ」
周吉・・・「そうか」
とみ・・・「志げのとこァ?」
紀子・・・「お姉さまのおうちは さァ この辺でしょうか」
とみ・・・「あんたんとこァ?」
紀子・・・「わたくしのところは こちらですわ この見当になりますかしら」
とみ・・・「そお」
紀子・・・「とっても汚ないとこですけど およろしかったら お帰りにお寄りいただいて……」
周吉・・・「ああ」
「お」をこれだけ多用する丁寧な言葉使いなど、今はあまり聞かないだろう。
真似しても、かえって嫌味に聞こえるだけかもしれない。
原節子のセリフだからこそかもしれないが、耳触りの良い日本語だと思った。庶民の言葉使いとは思えない上品さがある。
私たち70年代に青春を送った世代では、確か小津作品はしばしば「保守的」「小市民的」などという、無意味なレッテルを貼られることがあったように記憶する。しかし、現今のテレビなどに溢れる、グロテスクで品のない言葉使いよりは、よほど正統的な日本語ではなかっただろうかと思う。日本人の言葉使いが、それほど荒れ果ててしまったのだろうか。
それが、「精神の荒廃」の表れではない、と言えるだろうか。
やはり、年長者を敬う自然な「作法」というものが残っていた、ひとつの証だろう。今更、回顧趣味などないが、つい60年余り前の日本人の自然な言葉使いだったらしいことは見逃せない。
紀子のアパートを訪問する。
たった一間の、実に慎ましいたたずまいだ。ドア一枚がそのまま廊下との仕切り。炊事場は共同で、内風呂もないのだろう。
私たちの大学時代にも、下町にはこうした間取りの学生下宿がかろうじて残っていた。

急なことなので、隣の主婦に頼んで紀子がお酒と徳利を借りる場面がある。これも私たちの世代には、もの珍しい光景。
清潔だが、ハチの巣のように画一的なマンション。各戸がきっちり遮断され、隣人との関わりをほとんど拒絶して生きる人が多い。良し悪しはここでは措くが、人間を分断する工夫・装置がここまで発展した。エレベーターで出会うことに抵抗を感じる隣人が多い。いまどきの都市生活には人間の孤独が広く進行している。
しかし、ここには食料品を「借りる」などという、濃い付き合い方があったのだ。
東京でも、庶民はつましく助け合いながら生きる智慧が残っていた。戦争直後の経済事情も反映しているのだろうか。
また、独り身の紀子が普段から隣人と仲むつまじく生きている様子なのがそれとなく伝わる。

部屋には、老夫婦の次男だった故・平山昌二の写真が飾ってあった。
親子の懐旧談の中で次第に明らかになるのだが、紀子は八年前に夫・昌二を戦争で亡くしたのだった。子供もいない。だから今も操を守って独り身の「女性事務員」なのだ。
そういえば、私たち子どもの頃に、確かに「戦争未亡人」という言葉があった。
つまりここには、あの「戦争の影」がくっきりと描き込まれているのだと思う。
「戦後」という言葉に深いリアリティーがあった。
