Lowrence of Arabia    アラビアのロレンス(1)

大スクリーンで観てこそ値打ちのあるスペクタクルシーン。大砂漠の造形美には、形容する言葉が見つからない。人間わざを超えた迫力、非情なまでに美しい。

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揺れる蜃気楼のかなた、天地が接する地平線まで一望千里。
こちらが思わず吸い込まれてしまうようだ。
その微細な砂の大海にヌッと突き出る巨岩。
それ自体、峻嶮な山塊なのだ。

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仔細に見るとその麓を遅々として歩む蟻のような駱駝隊。まるで並ぶ「黒ごま」を巨岩が俯瞰している。
駱駝の背に揺れる人が、かすかに望見できる。
人の営みの卑小さを思い知るような大景観。

並の感覚ではとても太刀打ちできない。
ここでは人間の小さな思議など空しい。

気宇広大なテーマソングが、観る者の心を「永遠」へと誘う。
静寂の夜、全天に煌めく星。
見上げる我が身が星間に浮遊するような錯覚に陥る。

チマチマした人間の情緒など、この超絶的な宇宙空間の中では、ほとんど無力だろう。

この圧倒的な威圧感こそ、かの一神教における、峻厳な「神業」のイメージにつながる感覚なのだろうか。

改めて、自分が温和なモンスーン地帯の「箱庭」に生まれ育った、調和的な仏教徒の末裔なのだと自覚させられる。

舞台は第一次世界大戦の中東。
ドイツと同盟を結んだオスマン・トルコ帝国の圧政下にあったアラビアを舞台に、イギリス陸軍中尉T.E.ロレンスは、誇り高きアラブ人、ベドウイン(砂漠の民)の叛乱に乾坤一擲、青春を賭けた。

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T.E.ロレンス

1888年生まれのロレンスが、それまで劣勢であったアラブ戦線を、あっという間に大逆転する大活躍をしたのは、わずか2年間あまり。28歳から30歳くらいの青年だった。

彼は英陸軍内で、周囲の眼からは多少風変りな、無名の一下士官にすぎなかったようだ。
アラビア語に精通していて、その文化と歴史、地理にも詳しかったので、カイロの陸軍情報部で地図作成班に配属されていた。

いつの時代も、歴史を画するような大きな仕事を成し遂げるのは、無鉄砲なまでの青年の情熱と力なのだ。現状維持の老人ではない。

映画は冒頭、その主人公が46歳にして故国イギリスで突然のオートバイ事故であっけなく死亡する場面から始まる。

その葬儀に参列した人々の故人に対する毀誉褒貶の大きさ。ロレンスを賛美するものから非難する者まで両極端あって、その評価がすでに同時代で大きく分裂していたことを描いている。

狭量な心には、大きな存在がはみ出てしまうのだろうか。

確かに、実像を正しく評価するには、あまりに謎と矛盾に満ちた言動の多い人物だったようだ。
何しろ、やってのけたことのスケールが大きい。ウソのような本当の話。

しかも、舞台は今から100年近い昔のアラビアの砂漠地帯。その遊牧アラブ人部族(ベドウイン)を率いて、空前絶後の大戦果を達成してみせたのが無名の西欧人、若きT.E.ロレンスそのひとだったのだ。

大戦後の一時期、植民相として仕事をともにした同世代のウインストン・チャーチルも「やはり彼は当代最大の人物の一人だったと思う。彼のような人物は、ほかには知らないし、また将来も見ることはなかろう」と述べている通りの快男児ぶりだった。
にも拘わらず、当のロレンスは終生、少しもその名声に満足している風情でもない。

今日なお、欧米にとってアラブ世界との共生は最も大きな難問の一つだ。だからこそ猶更にロレンスの存在が歴史的に際立つ。
英仏に代わって第2次大戦後に介入してきたアメリカの中東政策も、まともに成功したという話しは聞いたことがない。むしろ失敗続きでほとほと手を焼いている、というのが実情だろう。むしろ、愚かな大統領の登場で、なおさら緊張感を高め世界を困らせている。

極東の日本からは、歴史的にも文化的にもアラブから最も遠い地点にあるお蔭で(と表現することがはたして妥当かどうかは別として)、地球上で一番理解の遠い異郷なのだろう。

直接に接することが少ないので、普段は「対岸の火」よろしく中東問題をのんびり構えて見ているだけだが、70年代前半の「オイル・オイルショック」のように、いつまた突然、混乱の大波が押し寄せてくるかわからないのが本当だろう。地球はますます狭くなってきている。

それを100年も前に、なんの屈託もなくアラブ人に「同化」し、その対トルコ叛乱戦争をいつの間にか作戦・統率までして、未曾有の大成果を挙げたというのだから恐れ入るし、ロマンをかきたてられる。

ベドウインの衣装を颯爽と着こなした英姿は、とても魅了的だ。

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それに何より、アラブ人の心をそこまで掴んでしまったということ自体が「天才的」なのだろう。欧米人が苦手とするアラビア世界で、あれよあれよという間に「アラブの英雄」に押し上げられてしまった。誰にも真似できないことだ。
一体全体、どんな人物だったのだろうかと興味をそそられるのも当然だろう。

その一つの試みが、1962年の大作映画「アラビアのロレンス」だということになるのだろう。

スケールの大きな映画だが、デーヴィッド・リーン監督はロレンスの人となりを描くために、緻密な場面設定と演出を施している。
※ただし、1957年の同監督作「戦場にかける橋」で、日本軍の斎藤大佐の性格描写にはあまり成功しているとは思えない。

第一次大戦当時、文明の国・西欧の人々は概してアラブ人を未開な「野蛮人」とみなしていたし、アラブ人はそう見られていることを自覚していた。
しかしファイザル王子(大戦後、シリア王やイラク王に即位)が劇中で述べているように、その9世紀前、ロンドンがまだ一寒村であった頃、コルドバなどアラブ人の都市文化は、西欧をはるかに超えた先進文明を実現していたのだ。

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ファイザル王子 映画「アラビアのロレンス」より。

そのアラブが、トルコの支配を脱して再びの栄光を取り戻そうと苦闘している。そこに眼をつけたのは、イギリス帝国主義。
敵国ドイツの同盟国トルコの脅威からエジプトとスエズ運河を守ること、そしてインドからの道を確保するため、トルコを中東から追い払おうとした。
しかし中東には北方のロシア、西欧のフランス、ドイツなど帝国主義列強の政治的思惑が複雑に交錯していた。
しかも、ベドウインたち自身も部族ごとに争い合っていてまとまりがない。それぞれの勢力が覇権を争っていた。

イギリス軍士官であったロレンスの本来のミッションは、国益に沿った諜報や謀略工作のはずだったが、面白いことに彼の奔放さはそこに留まらず、「アラブの大義」への「共戦」に発展してしまう。
逆に言うと、ロレンスの行動は大英帝国の国益という制約を超えてしまった。
彼には何よりも「砂漠の民」への深い共感性があったのだと思う。そこをアラブ人たちも見抜いた。だからアラブ人の世界に溶け込んで信頼を勝ち得たのだ。

初めて叛乱の首謀者ファイザル王子に会ったとき。
軍事顧問の英軍大佐が、苛苛しながら前近代的なアラブ人部族の戦いぶりを、英軍式「訓練」で再編しなおそうと提案する場面。
その幕屋の中で、まずロレンスは暗唱していたコーランの一節を見事に披露し、王子の心を射止める。アラブ人の魂を衝いたのだろう。老獪なファイザル王子も、イギリス人にしては風変わりなロレンスに強い関心と期待を持った。

上官が制するのも顧みずに「 ベドウインにはベドウインの戦い方がある」と王子に進言する。そして、イギリスの配下に入るのではなくて、アラブ人の自主独立による戦い方の智慧を絞り出し、自ら指揮をとる。
確かにこんなことができたのだろう。

彼はトルコ軍の要衝アカバ奇襲作戦を建言し、王子のわずかな手兵を借りて自ら灼熱の砂漠を超え、困難な戦を成功させてしまう。それは途中の砂漠(「ネフド砂漠」)を「神の作った地獄だ」と言い、地元を熟知するベドウインですらも実現を危ぶむ奇襲作戦だった。

地獄の死線を乗り越え、トルコ軍の要衝アカバを後背地から攻め、陥落せしめてしまった。トルコ側守備隊も想定外の背面からの急襲だったことが描かれている。こうしてロレンスへの信頼は一気に高まった。
戦場では「困難な戦いに勝つ」ことでのみ信望は得られる。一躍ロレンスはベドウインの英雄に祭り上げられた。

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ロレンスのリーダーシップはアラブ人の信頼を獲得した  映画「」アラビアのロレンス」

更にカイロの英軍司令部に戦況報告のために、アカバからシナイ半島の大砂漠地帯を命からがら横断、達成。

その出発に際して前途の苦難を案じるベドウインたちにロレンスが「モーゼもやったことだ」「(Why not?  Moses did.)と述べるところが非常に興味深い。
つまり、砂漠の民もキリスト教徒のロレンスも「同じ神」を奉じているので、旧約聖書の物語が共通の理解を助けるのだと思った

日本人や中国人、あるいは朝鮮半島の人々との間では、こうした宗教的に共通する「神話」はあまり聞かない。
「儒教」は共通だが、日本では、どちらかというと「学問」のカテゴリーになるだろう。

一方、エルサレムにはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地が混在している。つまり、中東の混乱は、いわば一神教の「内ゲバ」という要素もあるのだろうか。この文化差異については、もうちょっと深く学びたい。

ベドウインの民族衣装で駱駝にまたがるロレンス。
そのアイデンティティーのダブルスタンダードぶりこそが、彼の活躍の「秘訣」なのだ。

たぶん今日でも、あらゆる諜報活動というのは、互いに相対する(あるいは敵対する)敵味方入り乱れての接近戦の渦中で、しばしば自らのアイデンティティを境界線上に晒す技なのだろう。そうした命がけの戦場であるからこそ、彼我の間に互いの信頼や友情が 結ばれるチャンスもある。
また、そうでなければ良質のインテリジェンスを獲得することはできない。

かくして「アラブ流」を貫きとおして、様々な艱難辛苦を乗り越え、とうとうロレンス率いる反乱軍は、ダマスカスを英軍に先んじて陥落させた。未曽有の快挙だった。

しかし、ここで舞台は暗転する。

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混乱する「アラブ民族会議」  映画「アラビアのロレンス」

彼が目論んだ「アラブ民族会議」は数日で崩壊し、ベドウインたちはせっかく占領したダマスカスから、それぞれの部族の故郷、砂漠にさっさと帰ってしまう。砂漠に生きるベドウインには、近代都市の行政を運営する経験もノウ・ハウもない。そもそも無理があったのだ。
「アラブの大義」よりも「略奪」に満足してしまう仲間たち。ロレンスの近代性と当時のアラブの民の未開性に大きな齟齬が生じたのだろうか。

ロレンス自身も奇跡的な成功で一種の「全能感」に陥ったり、その逆に手痛い失敗や屈辱をも味わってきた。さらに、戦場でのあまりに「非文明的な」殺戮の酷たらしさにも嫌気がさしていた。
「普通の軍人」に戻りたいと深刻に悩み始めていた。
ここに至ってロレンスの戦場での役割は終焉を迎えた。

ロレンスが率いる「アラブ民族会議」の足元の不如意を察した英軍司令官たちは、あえてこれを放置した。ベドウインが内紛を起こして自然に瓦解するのを待った。これが狡猾な「大人の知恵」というものなのだろう。
こうして英軍はロレンスやアラブ軍の「果実」を無傷で手中に入れた。彼はその功績によって大佐に任じられ、体よく帰国させられる。

傷心の思いにふけりながら砂漠を去る主人公。帰国の途につくジープを、一台のオートバイが追い越す。映画の始まりのシーンと呼応している巧みな幕引き場面だ。

「フェイサルが辞去した時、私は・・・・アラビアから身を引きたい、と。・・・・・ついに彼(アレンビー英総司令官)は同意した。だが、その瞬間、はじめて私は、アラビアを去ることが、私にとっていかにたえがたい悲しみであるかが、はっきりとわかったのである。」
(ロレンスの自著「砂漠の叛乱」より 中公文庫)

結局、青年ロレンスの大活躍は、西欧列強やアラブ首長たちのパワー・ゲームを回すひとつの「コマ」でしかなかったことになる。

しかし実は多かれ少なかれ、こうした「若き英雄の悲劇」は歴史上に枚挙のいとまがない、とも言えるのではないだろうか。
老獪な権力者は、若い命を利用するのだ。

占領後のダマスカスの統治を協議するトップ会議。
ロレンスも立ち会う中でファイザル王子はこう述べる。まるで詩を歌うように。

「もうここに戦士の仕事はない。残るのは交渉だけ。我々老人の仕事だ。若者は戦い、戦の美徳も若者に帰する。勇気、未来への希望、そして老人が平和を築く。平和の悪徳は老人のもの。不信や警戒心のことだ。それが道理だ。・・・・」

There is nothing further for a warrior here.
We drive bargains.Old men’s work. Young men make wars…and virtues of war are the virtues of young men…..courage and hope for the future. And then old men make the peace, and the vices of peace are the vices of old men….mistrust and caution.
It must be so.

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史実かどうかは別として、英軍司令官よりもはるかにアラブ人王族の方が、事態の本質を弁えているのがとても興味深い。

この映画はデーヴィッド・リーン監督流のロレンス解釈なのだろうが、実際のT.E.ロレンスはどんな人物だったのだろうか。

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