2012年の春頃だっただろうか、国民栄誉賞に輝く大鵬のテレビ特番を見た。
それをきっかけに何冊か伝記も読んでみた。
あらためて、その偉大さに感激した。
あのころは、いつも勝つ大鵬を見ていると、土俵に波乱がなくて面白くないなと思っていたが、それがとても表面的で浅はかな見方であったのだと痛感した。
「常勝」であるために、人知れずどれほどの「精進」を積み重ねてきたお相撲さんだったことか、つゆほども知らなかった。
子供だった私は、まだ人生の厳しさがさっぱりわかっていなかった。
けがでよく休場した「柏戸」のほうにシンパシーを感じていた。
病み上りの千秋楽だったか(63年秋場所)、優勝をかけて柏戸が大鵬と全勝対決で戦ったとき、テレビの前でおもわず柏戸に声援したものだった。
子供の私には、大鵬が強すぎて面白くなかったからなのだ。「判官贔屓」というらしいけど、私も含めて観客は勝手なものだ。
そう言えば、柏鵬戦に「八百長」だといちゃもんをつけて、その実は本番を見てもいなかった作家がいた。
この一件では自己の非を認め、あとで謝罪したらしいけど、その後も政治家になって、ますます偉そうに「上から目線」で身勝手な御託を並べていた。傲慢そのもの。
大鵬は「天才」と言われることをとても嫌ったという。若い時からひたすら猛烈な稽古に邁進した。つまり、誰よりも努力の人だったのだ。才能に胡坐をかいた人ではない、と知った。
だから、あの頃もてはやされた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉も気に入らなかったのだという。
「お金をかけて優秀な選手を集め、チームワークで臨むスポーツではない。裸一貫、土俵の上ではたった一人なんだ。」
という。衆目の中、まさにたったひとり。体だけが資本だから、ともすれば怪我も多いスポーツだ。
横綱としての自負心、ずっしりとした責任感、その孤独感の重圧に絶えながら、10年以上も前人未到の記録を更新してきたことは偉大だと思う。
波乱がないので面白くない場所が続いているようにも思っていたが、「一人横綱」として塩を撒く大鵬の姿が孤独だった。
しかし、その人間としての偉さはむしろ、現役引退後、人生の苦難にあったときの身の処し方だと痛感した。
親方としてこれからという、最も大事なときに、不慮の脳梗塞に襲われた。もう再起不能かと無責任な風評が世間に流れる中で、それこそ人目もはばからず、恥じも外聞もなくリハビリに専念した。
元大横綱の大男が、病院のフロアーのタイルを目安に、四つん這いになって這うリハビリ。
その心中を察するに「負けられぬ!負けてたまるか!」との一念だったことだろう。
その姿に、改めて「こんなに努力する人だったのだ」と妻が述懐する。
「誰も助けてはくれない。」
地に倒れた者は、自らの手足を使って起き上がるしかない。
並みの精神力ではできない。ひとりになれば人は弱い。
サハリンの牧場主であるウクライナ人の父と日本人の母の間に生まれた。父の先祖はウクライナ貴族らしい。ロシア革命の混乱を避けて来てサハリンに住み着いた。
しかし、時代の波は容赦ない。庶民には責任のない「敗戦」がすべてを狂わせた。
日本人の母子の運命は一転した。
幼少期はこの混乱の中で翻弄された。
引上げ船に乗船し、ある寄港地でたまたま降りたので命拾いした。同じ船で、次の港に向かった乗船者はあっけなく海中に沈んでしまった。
米軍に撃沈されたのだった。
母子ともに九死に一生を得たのだ。
父とは五歳にして永遠の別れ。あの時代、植民地にいた日本人は皆、敗戦の混乱のるつぼのなか、いうに言われぬ辛酸を舐めた。
私たちが子供のころ、そうした苦労話をする大人が多かった。
国策の失敗のしわ寄せが無実の民衆に、それも一番弱い立場の女性と子供にのしかかった。
ここにも、あの愚かな戦争の影がある。
貧しい木こりの仕事をしながらの少年時代。
荷物車から零れ落ちた鰊を拾って食べたこともあったという。
その苦しさに比べれば、相撲部屋での激しい稽古などつらいとは思わなかったというのだから、少年期の苦闘が偲ばれる。
大鵬が活躍した昭和30年代後半は平和な高度経済成長の時代。子供の私にとっては懐かしい風景が思い起こされる。
それはまた、戦争の陰を背負った人々のサクセス・ストーリー全盛の時でもあった。
土俵の上の姿しか見ていなかったので、戦争を知らない私は大鵬が背負う「歴史」がまったく見えていなかった。
そこに着目すると、昨今の世の中の「変調」振りが逆にはっきりと見えてくるのかもしれない。
ウクライナ人の遺伝形質だろう、その肌は白く美しい。四肢が長くて腰が高く、均整のとれた偉丈夫の体躯。彫りの深い相貌。
堂々たる雲龍型土俵入りの姿はテレビで見ていても、ほれぼれするほど美しかったが、無口で無表情、笑顔はほとんど見せない。
千秋楽結びの一番には、銭湯の脱衣場や電気店のショーウインドーでもテレビに人だかりがしたものだった。まだテレビが今ほど普及してはいなかった。我が家でも初めてテレビが入った時は柏鵬の直前、栃錦、若乃花時代の最後だったと記憶する。
しかし、肉体を酷使する激しい稽古と急作りの体躯には、かなり無理があったのだろう。若くしてすでに本態性高血圧の影が忍び寄っていた。
それから、30数年後。
たるんだ肉体をかろうじて支えながら、思うように動かない左手を必死で抑え込み、真正面を見据えながら60歳の還暦土俵入りを果たした「英姿」には、さすがに涙を禁じ得ない。
横綱は赤に染め直されていた。
よくぞここまで長生きし、見事に復活された。
若い時の無理な肥満や過酷な運動が原因だそうだが、一般に相撲取りは短命なので赤い綱を締める人は少ないのだという。
その精進を支えた精神には、深い敬意が湧く。
何よりも、人間として立派な大横綱だったのだ。
どこまでも「けいこという基本」に徹した人生・・・・インタビューで語る「お相撲さんは稽古しかないです」との言葉には千金の重みがある。
そして、
「・・・不幸な戦争に命を捧げ日本の礎になった若い人たちの無念さこそ忘れてはならないと思う」
と自伝は結んでいる。
まさに「戦争と平和の時代━━『昭和』の大横綱」にして語りうる言葉ではないだろうか。
友人の話では、ウクライナには大鵬の銅像があるらしい。日本人にはあまり知られていないが。。。。。。