風と共に去りぬ Gone with the Wind(前編)

邦訳映画タイトル「風とともに去りぬ」が公開されたのは1939年、昭和14年なので、ヨーッロッパでは第2次大戦勃発の年。
日本は「ノモンハン」での対ソ戦の完敗を国民に隠した年。翌年には三国軍事同盟を結び、見通しのない戦争への道を転がり落ちていった頃。

暗い世相だったことだろう。
例えば、この時代を描いた木下恵介監督の「二十四の瞳」。
瀬戸内海に浮かぶ、あの美しくのどかな小豆島にまで「国家総動員体制」の重苦しい統制が容赦なく徹底された様子が伺える。
庶民の暮らしはすべて戦争遂行の犠牲にされ、自由な言論は圧殺されていった。せっかく「おなご先生」(高峰秀子)が真心こめて教えた罪のない子供たちも、次々と戦争に駆り出され多数亡くなっていった・・・・。
こんな時代を繰り返してはならないという痛切な願いが映画には込められていると思う。

そんな時に、アメリカでこんなにのびのびとしてスケールの大きな映画ができていた。しかも当時最高の技術、テクニカラー仕上がり。
開戦直前の彼我の経済力、文化力の落差は歴然としている。

戦時中のシンガポールや上海でこの映画を観た日本人には「こんな映画を作れる国と戦争しても勝ち目はない」と、内心舌を巻いたという話もある。(小津安二郎監督などが軍の依頼で国策映画を作るために駐在していたらしい。結局、映画はできなかった。)
公開すると都合が悪いのか、日本本土では上映されなかった。国力の差が一目瞭然になることを権力が恐れたのだろうか。
「国難」などという言葉を、政権が国民に押し付けてくるときは、その欺瞞を鋭く見抜かねばならない。

結局、日本初公開は1952年になってからだという。昭和27年だから、まだ敗戦の記憶が国民一人一人に深く残っていた頃だろう。
朝鮮戦争の悲惨な有様を尻目に、「朝鮮特需」で日本が復興の足がかりを掴んだころ。

南北戦争を縦糸にして、主人公スカーレット・オハラの波乱万丈の青春を横糸に編んだ叙事詩的作品だと評されている。

彼女は、ジョージア州の大農園主の長女に生まれ合わせた。
富と美貌に恵まれた「サザン・ベル」。まるで自らが「世界の中心」にいるかの様な至福の青春時代だった。男たち皆から求愛されて当然と考えるような、天真爛漫のナルシズム。

しかし、その彼女が密かに南部の貴公子の典型として思いを寄せ、当然の結婚相手と考えていた「貴公子アシュレー」に、あっさりと振られたことから激しい物語は始まる。

ただしよく見ると、徹底して南部の白人の視点から描かれている。過酷な労働環境で搾取されていた黒人奴隷の真実が隠されているのではないかと、かねてより強い批判を受けていることも見逃してはいけないだろう。
それでも映画の方は、当時としては原作の小説よりは幾分配慮したものだったらしい。

また、同じ黒人奴隷でも細かい階級差があって、館の中で主人一家の家事に携わる、家族扱いの人もいれば、粗末な生活条件のもと、綿花畑でつらい肉体労働に従事する姿もある。

その中で母エラに付き従ってオハラ家に入った、いわば女中頭で子女の教育係もになうマミーの存在は出色だと思う。わがままなじゃじゃ馬娘のスカーレットにはかなりの難敵、お目付役でもある。
autant en emporte le vent

私はスカーレット・オハラという女性のキャラクター、その栄光と錯誤も含めて、強いシンパシーを覚えた。戦前の日本(土地改革前)にも、規模は違うが同じ類の人々がいたことだろう。

この時代のアメリカのことは、リンカーン大統領によって発せられた有名な「奴隷解放宣言」の南北戦争というほか、なんの予備知識もない自分にとって「南部」という世界を知る良い材料でもあった。

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ともかく、ドラマ展開の起伏の大きさには思わず引き込まれる。

演ずるヴィヴィアン・リーが深い碧眼の美人だからというだけでなく、これだけ激しい性格で、かつ自己中心的、高慢な女性なのに、なぜか憎めない。たぶん、育ちの良さなのだろうが、その無邪気さに魅力があるのだろう。

そこには、時代や社会の制約を打ち破る若いエネルギーが漲っている。
だから彼女に惹かれるレット・バトラーの恋心に思わず共感してしまうのだ。

そして、このレットがスカーレットを巧みにくどく老練さも、なにか憎めない愛嬌がある。
彼女の眼前に登場するときのきざな身なり、不敵でニヤついた笑顔、慇懃無礼な言葉つかい。
憎ったらしいくらいにスマートな男っぷりは愉快ですらある。いずれも古き良き「南部」という時代性を表象しているのだろう。

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レットはスカーレットが可愛くてしかたない。彼女をなんとか手に入れたいので、あらゆる手練手管を弄する。
ところが彼女はいつも断固としてレットを拒絶する。その蝶々発止のやりとりが楽しい。

むしろスカーレットは南部貴族の典型、アシュレーに強い片思いを寄せているからだ。

そして、運命のいたずらか、スカーレットにとっては本来、不倶戴天の恋敵であるはずのアシュレーの新妻・・・・メラニーとは、家族をもしのぐような、運命の絆で結びついていく。

このメラニーはスカーレットとは、好対照の女性として描かれている。
身体虚弱だが慎み深い性格で善良。とても気がやさしいが根はしっかりした人柄で、典型的な南部淑女。
他人の悪意すら、いつも見事なまでの善意で受け取る。それは偽善ではなくて、ひとつの「美徳」ですらあるようだ。ひょっとすると、キリスト教精神の理想型なのだろうか。

だからスカーレットの嫉妬深い言動も、メラニーにとっては真逆の「好意」に受け止められてしてしまう。スカーレットの毒気がメラニーによって解毒されてしまうのだ。
それがかえってスカーレットを苛立たせるのが面白い。
私自身はスカーレットの方にリアリティーと魅力を感じる。
メラニーのような、ときに不自然なまでに理想化された人格者とは付き合いづらいだろう。

興味深いことに、ふたりは南北戦争とその後の大混乱期を、手をとりあって生きていかなくてはならない運命なのだ。
まるでコインの裏表のように好対照なふたりなのに、苦闘の中で生死を共にする。まことに不思議な巡り合わせ。
だから物語に深みが出てくるのだろう。

このスカーレット、レット、アシュレー、メラニーを含めた4人の愛憎劇の底流には、仏教でいう「愛別離苦」、「怨憎会苦」という「業苦」すら想起させられる。
愛する者とは一緒になれない、いやな奴とはいつも顔を会わす。でも離れられない。
運命というものはなぜか皮肉で、人の欲求や希望を見事まなまでに裏切る。かように人生は「煩悩」に満ちている・・・・。

一方、戦時体制下の南部人でありながら、レットは南軍の「騎士道精神」なんかハナから小馬鹿にして、信じてはいない。彼は当時の南部人の規範を逸脱した素行で不謹慎な噂の種は尽きない。
その上に、「どうせ負ける戦争だ」と公言してはばからないのだから、周囲から大いに顰蹙をかっている。

戦争なんて所詮「金」の奪い合いだ、と突き放している。いわば「非国民」なのだ。1952年の日本封切りの時点では、大いに受けただろう。「大東亜共栄圏」なんて真っ赤な嘘っぱちだったという怒りが横溢していた頃だ。

彼は、勝利を確信していきり立つ、プランテーション育ちの単純なぼんぼんにはないリアリズムを身につけている。海軍力、工業力のある北部が優勢なのを知っているからだ。
むしろ混乱に乗じて「不道徳」なひと儲けを企む、アナーキーないかがわしさをすら備えている。実際、戦争で巨万の富を手に入れる。それがレットの大きな魅力なのだ。
しかし国策に便乗して裏社会で私腹を肥やし、政財界や軍部のフィクサーを気取る「後進国型」の悪人でもない。あくまで個人主義者なのだろう。

そして、「敗戦のときこそ金儲けのチャンスだ」などと不謹慎な話をスカーレットに打ち明けるのは、レットが自分も彼女も同じ種類の人間だと認めているからだ。
レットはスカーレットにその自覚がない無邪気なエゴイズムをたまらなく愛しているのだ。

たとえば、レットは南部の紳士淑女にこう言う。

“All wars are sacred,” he said. “To those who have to fight them.・・・・・ But, no matter what rallying cries the orators give to the idiots who fight, no matter what noble purposes they assign to wars, there is never but one reason for a war. And that is money. All wars are in reality money squabbles. But so few people ever realize it.・・・・・’”

「戦争はすべて神聖です。ただし、戦わなければならない人たちにとっては、ということです。・・・・しかし、戦争をするばかものに、雄弁家どもが、どんなに景気のいいスローガンを与えようと、どんな崇高な目的をこじつけようと、戦争には、ただ一つの理由しか絶対にありません。それは金だ。戦争はすべて、実は金の奪い合いなんです。けれども、それをさとっている人は、ほとんどいない。」と。

スカーレットは戦争で多くの人が死ぬことに嫌気がさして

“Oh, Rhett, why do there have to be wars? ・・・・・”

「ああ、レット、どうして戦争なんてしなくちゃならないの?・・・・」

これに対するレットの応えが

“It isn’t the darkies, Scarlett. They’re just the excuse. There’ll always be wars because men love wars. Women don’t, but men do — yea, passing the love of women.”

「戦争の原因は奴隷問題じゃないんだ、スカーレット。それは口実に過ぎない。いつも男は戦争が好きなんだ。女は戦争を好きじゃないが、男は戦争が好きなんだ。----まったく女よりも戦争がね。

これではリンカーン大統領の「奴隷解放宣言」も鼻白む不謹慎さだ。
しかし、このレットの指摘はとても鋭いと思う。戦争の本質に通じるのではないだろうか。

お嬢様育ちの若いスカーレットには、残念ながらレットの慧眼がさっぱりわからない。しかし実はスカーレトもまた、戦争の大義なんかよりも自分の欲求のほうをすべてに優先したい奔放な女性なのだ。

自分の心の赴くまま、思いっきり自己中心的に生きたい。結婚すらも恋敵たちへの衝動的な意思返しのわざだ。わがままもここまで来ると、たいした破壊的エネルギーだ。
だから偽り結婚のお相手はすぐに出征して、気の毒にもさっさと戦病死してしまう。

少しも悲しくない夫の死。生まれた子供は足でまといなだけ。お定まりの喪服もうっとおしい。古い南部のしきたりやつまらない掟が彼女を縛っているに過ぎない。戦時中であることが猶更に彼女の行動を制約する。

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そこを見抜いてレットが偽悪的に誘惑するのだが、私には男たちが熱狂する戦争なんかに少しも大義を認めない、スカーレットの天衣無縫さのほうに共感が持てる。
「戦争」の方がはるかに不道徳だ。
「国家が人殺しを正当化する」なんて、最大の悪に決まっている。

大部分の人が「古き良き南部」とともに、時代遅れの精神のまま無謀な戦争に突入して、すっかり落ちぶれてゆく中、レットもスカーレットも既存のモラルに縛られない突破力で生き抜いていくのだ。当然ながら古い規範を墨守する人々の強い反発を買う。

面白いことに、スカーレットが一方的に思いを寄せるアシュレーも実はレットと同じ視点をこの戦争に抱いている。無駄な戦争なのだ。
二人の違いは、それでも唯々として大勢に順応するのか、世間を尻目にアウトローとして生きるのかの違い。

付和雷同で皆が同じ方向に走るときに、他人の毀誉褒貶なんか意に介せず、自分の才覚と行動力で生き抜くレット。たんなるプレイボーイではない。

前篇の最後、陥落直前のアトランタ。
彼はスカーレットへの下心もあるから、ここ一番のところで彼女とメラニー母子の窮地を助けて、火勢空を圧する中、壮大な脱出行を敢行する。見せ場のひとつだ。

ところでレット、敗色濃い南軍の運命を知りつつも最後は、信じてもいない「南軍の大義」とやらに身を投じる男でもあった。タラへの逃避行の途中で一転して出征する。
一筋縄ではいかない、なかなか懐が深い男なのだ。

しかしこの行動もスカーレットにはさっぱり理解できない。むしろ、命がけの逃避行のさなかで自分たちをあっさり見捨てる行為に怒り心頭。

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こうしてふたりの絡み合いが南北戦争を背景に豪華絢爛と展開してゆく。両人ともなかなかタフだ。

なぜ1950年代の日本でも大ヒットしたかというと、映画の壮大なドラマ性に魅力があるのは勿論だが、見ている観客が日本の愚劣きわまりのない戦争を体験したので、その悲惨をこの映画に重ね合わせて観ていたからだ、という指摘がある。

確かに工業力に優る北部に対して「南部魂がある」なんて幼稚な精神論、英雄気取りの男たちが戯画的に演じられているところなど、戦前の大日本帝国の事情に一脈通じるところがあったのかもしれない。「大東亜戦争の大義」に裏切られた日本人の心に二重写しとなったのだろうか。

実際、独りよがりの「大和魂」や「武士道」なんか圧倒的な米軍の力の前には屁の突っ張りにもならなかった。
学徒兵として、あの戦争の愚劣さを直接に垣間見た父の世代の、痛切な実体験がそれを雄弁に物語っている。

前後編あわせて4時間近い大作だが飽きることはない。

100人もの奴隷を擁する大プランテーションのお嬢様であったスカーレットが戦乱の中、からくも九死に一生を得て、産後の日立ちの悪い恋敵メラニーとその子を伴って逃げ帰ってきた故郷タラの邸宅。

それは見るも無残な廃墟だった。生まれ育った南部は見事に滅びてしまっていたのだ。昭和20年の惨めなニッポンと同じ。

フランス貴族の血を引き、信仰深く賢明な母。夫を支え、奴隷や家族に惜しみなく愛情を注いでくれた、慈しみ深いその母は死んでいた。
しかも今わの際のうわごとでは、夫以外の男の名を呼びつつ。ここはシビアだ。タラの生活は根底のところで実は「虚偽」を胚胎していた。

アイルランドの移民で、一代で地位を築いた大地主としての誇りと自信にあふれていた父ジェラルドは茫然自失、妻の死を受け入れられない。すべてを失ってしまったショックに老人性の痴呆症状まで発症している。

普通なら、良家の御嬢さん育ち、この絶望的な状況に圧倒されて世をはかなみ、人を恨んで後半生を生きることが多いのではないだろうか。

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しかし、スカーレットは違った。
わずか19歳の未亡人でありながら、長女として家族皆を食べさせ、たったひとりでタラを再建しなくてはならない。

荒涼たる赤い飢餓大地の中で、畑の中の痩せ細った大根をほじくり出し、空腹で思わずかじりついたものの、吐き出すシーンがある。

あまりの惨めさに、いったんは大地に泣き伏すスカーレット。

しかし、ここからが彼女の真骨頂。

そこから起きあがってこぶしを天に振り上げ、誓いの言葉を宣言する。「神様に誓います・・・・・うそをつき、盗みをしようと、人を殺すようなことがあっても、生き抜いて見せる!・・・・二度と家族を飢えさせはしない!」

いかにもスカーレットらしい不屈の誓願には強い感動を覚える。最後は信仰が支えなのだ。

As God as my witness….as God as my witness they’re
not going to lick me. I’m going to live through this
and when it’s all over, I’ll never be hungry again.
No, nor any of my folk. If I have to lie, steal,
cheat, or kill, as God as my witness, I’ll never be
hungry again.

「頑張れ! スカーレット!」と素直に共感する。

敗戦後の混乱と悲惨の渦中で、もがくようにして生きていた当時の日本人の心の琴線に直接響くものがあったのだろう。

今も、”タラのテーマ”を耳にしただけで走馬燈のように数々の名シーンが蘇る。

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