子供たちがお金を出し合って送り出してくれた、せっかくの熱海温泉だったが、行ってみると、どこかの社員旅行の大喧騒に巻き込まれ、夜も寝付かれない。
老人の湯治には余りに場違いな旅館だった。
長女・志げ(杉村春子)の「ウララ美容院」に逃げ帰ってみると、片付いたはずの両親を見て、志げはたちまち不機嫌になってしまう。じつは、美容師の講習会で、今晩は志げの店が当番会場なのだという。周吉(笠智衆)もとみ(東山千栄子)も、そうとは知らなかった。
志げにとっては自分が主役となる今晩、仕事に関係ない尾道の両親を体よく厄介払いしたつもりだったのだ。自宅兼美容院の手狭な住まいに老父母の居場所はない。
志げはとっくに過去(=尾道)を捨てて、今(=東京)を生きぬくのに精いっぱいなのだろう。

前回紹介したように
「・・・ええ、ちょいと知り合いの者━━田舎から出て来まして・・・・・」
と、馴染み客の問いに対して咄嗟にその場取り繕うのは、この業界の東京で生きる自分の素性を封印しておきたいという無意識の心理のなせる技だった。
尾道で余生をのんびりと暮らす「過去形」の親と、世知辛い東京の生存競争の只中に生きる「現在進行形」の子供たちの、生活感の落差が露骨に出ている。
有体に言えば、今日は両親が家にいてもらっては迷惑なのだ。
その剣幕に圧倒されて、熱海から戻ったばかりなのに、やむなく老父妻は早々に長女の家を退散するのだが、さりとて行く宛てはない。長男の狭い家は町医者を兼ねて忙しそうだし、嫁にとっても負担だろう。ふたりの男の子の孫も、ふだんの馴染みが薄いからさほどなついているわけでもない。
ここは尾道ではないのだ。
どこかの社寺の境内なのだろうか、
「・・・・とうとう宿無しんなってしもうた・・・・」
と顔を見合わせて寂しく苦笑する二人。
このあたりから、老夫妻の境遇には次第に惨めさがつのる。
これは、見ていても胸が痛む。
やがて、敷石に座り込んで弁当を済ましている老夫婦。
それまで時間を潰していたが、とみはもういちど紀子を訪ねることとなり、周吉は尾道からの旧友である代書屋の服部修(十朱久雄)を訪ねて、あわよくばそこに泊めてもらおうかと思案する。広い東京で寝床さがし、行き当たりばったりとなってしまった。
服部宅を訪れてみると、あいにく二階を大学生に貸しているので、周吉を泊めることは無理な様子だ。服部の妻は、周吉を飲みに連れ出すよう夫にこっそり促す。出ていってもらいたいのだろう。
しかし、服部の話では尾道の警察署長だった沼田(東野英二郎)がすぐ近くに住んでおり、はからずも旧友三人の楽しい飲み会となった。

ここで三人の老父は結局、子供世代への不満を酒の上で吐き出すのだが、そこには「戦争の影」も深く刻み込まれている。明治生まれ世代は、あの戦争で息子を失った人々がたくさんいた。私も大人たちの会話のなかに「兵隊に取られる」というフレーズをよく聞いた。
惨めな亡国に終わった兵役は庶民にとって「桎梏」でしかなかったのだ。
非常に感心したのは、直截的に語らないからこそ、実に的確に「戦争」の影が織り込まれていること。近代日本は国を挙げての無謀な戦争の歴史でもあった。庶民の生活にはその傷跡が深く刻み込まれている。
三人が酒を酌み交わしている飲み屋は、歓楽街(上野広小路あたりらしい)にあって、近くにはパチンコ屋があるのだろう。「軍艦マーチ」がけたたましく鳴り響いているのはそれを皮肉にも暗示している。
代書屋・・・・そもそもこの職種は、私たち世代には実感がないが・・・・の服部は二人の子を、二人とも戦争で失っているようだ。
「・・・・(服部に)二人ともたぁ痛かったなァ━━(周吉に)あんたんとこは一人か・・・」
と沼田。
この映画を観ているこの当時の観客もまた、家族や知人の誰かを戦争で失っている境遇だ。私の祖父母の場合のように、空襲で実家を消失して先祖との間に大きな断絶を刻んだ戦災経験者も多い。もちろん、戦争を起こした主体たる国家や権力者からは何の補償もない。むしろ、いまだに「侵略国の国民」という汚名を海外から浴びせられることもある。
わたしはここでもうひとつ気づいたのだが、物語の初めのほうで長男幸一と周吉が尾道の知人の消息を語る中で、服部は尾道の役所の「兵事係り」だったことを思い出した。
つまり服部はかつて役所で召集令状を扱う部門にいたことになる。
見逃しやすい傍線だが、徴兵適格者のいる家庭に「一千五厘」といわれた召集令状の「赤紙」を届ける、まるで不幸の手紙の配達人ような嫌な役割を業務としていたのだった。
その当の服部が二人いた倅を、二人とも戦争で失っているのは、計算されたシナリオであって、「偶然」ではないだろう。
「運命の皮肉さ」がこの作品の通奏低音なのだ。小津監督の人生観が反映しているのだろうか。
だからこそ、酩酊した服部が
「いやぁ、もう戦争はこりごりじゃ」
と寂しく呟くセリフには、深刻なリアリティーがある。1953年当時の観客には、深い共感が広がったに違いない。ただし、これは一方的な被害者意識であったことに留意しなくてはならないと思う。戦争政策を強く支持した国民も多かったと思う。
いっぽう、せっかく生き延びた子供が親にとって必ずしも期待通りではない現実を、今度は沼田が嘆く
「・・・・ウーム、全くなぁ、━━しかし、子供いうもんも、おらにやおらんで寂しいし、おりゃァおるで、だんだん親を邪魔にしよる。二つええこたァないもんじゃ・・・」
と応えているのだ。
ここには、誰にとっても思いどおりにならない人生の不条理感が滲み出ていると思う。

酔った勢いもあって、三人の会話は「世間体」や「見栄」があるので普段は隠している真相が暴露される。沼田は一人息子と同居のようだが、その息子を他人には「印刷会社の部長職」と偽っているようだ。
「・・・・なァんの、部長さんなもんか! まだ係長じゃ!あんまり体裁が悪りぃんで、わしゃ人様に部長じゃ部長じゃ云うとんじゃけえど、出来損ないでさぁ・・・・」
と、親の期待倒れの息子の「根性の無さ」「敢闘精神のなさ」を嘆く。「精神鍛錬」とはたぶん戦時中によく使われた言葉なのだろう。
すると、
「・・・・しかしなぁ沼田さん、わしも今度出てくるまでぁ、もういちいと倅がどうにかなっとると思うとりました。ところがあんた、場末のこうまい町医者ですぁ。あんたの云うことぁようわかる。あんたの云うようにわしも不満じゃ。じゃがのう沼田さん。こりゃ世の中の親ちうもんの欲じゃ。欲張ったら切りがない、こりゃ諦めにゃならんと、そうわしゃおもうたんじゃ。」
沼田を睨んで、酔った周吉の眼が座っていた。
この映画で唯一、周吉が子供たちへのホンネを漏らしている。それは旧友という「他人」にしか語れない告白なのだ。

上京して以来、ずっと秘めていた思いを、周吉ははじめて酒の上で吐露したのだった。
それは、幻滅感と諦めの言葉だった。
ストーリーはますます凄惨さを深めてゆく。