映画「ハンナ・アーレント」         人が考えることを捨てた時(5)

映画そのものは2012年のドイツ・ルクセンブルク・フランス合作の伝記ドラマ。
監督も主演も2013年にドイツで数々の賞を受けた。アメリカでは2013年5月29日から劇場公開された。

映画のチラシ

2013年11月にニューヨークで非営利の独立報道番組「Democracy Now!」が、映画ハンナ・アーレント』の監督マルガレーテ・フォン・トロッタとアーレントを演じた主演バルバラ・スコヴァを招いてインタビューしている。yutubeで見ることができる。
この映画の制作意図や背景を、当事者が解説するのでとても興味深い。

映画では触れられていないが、マルガレーテ・フォン・トロッタによると、狂信的なナチス支持者がかつてアルゼンチンに隠れていたアイヒマンを取材した資料を見ると、そのインタビューではアイヒマンは自らをナチスの大物であるかのように振る舞っていたという。
一方、イエルサレムの法廷ではことさら自分の責任を小さくみせようと腐心しているように見えるという。事実はその中間にあるのではないか、と監督自身は推測している。ドイツ語がわからないので残念だが、アイヒマンの陳述は、まともなセンテンスの体をなしていないこともあるという。
映画はアーレントが主役だからその主張が本筋だが、アイヒマンをユダヤ人虐殺の悪魔的犯罪者とするか、凡庸な小役人とするかについては、両方の議論を並べて観客の判断にゆだねた。

役者に演じさせるのではなくて、あえてアイヒマン裁判のアーカイブ記録を挿入させたのは、観客がアーレントの解釈に沿ってアイヒマンの「 banality of evil」(悪の陳腐さ)」を認識するために、膨大な映像資料から抽出したものだという。

監督によると、アーレントの終生のキーワードのひとつは「理解すること」だった。
つまり、哲学者だった彼女は終生、さまざまな事象の真相を追及しようとしたのだろう。志願して裁判を実地取材、アイヒマンを仔細に吟味した結果、あの有名な「悪の陳腐さ」という概念が案出されたのだった。
こうしてアーレントは裁判の背景にある、イスラエル政府の政治的な意図を退けた。そもそもアイヒマン裁判は法的な根拠すらあいまいだ。


マルガレーテ・フォン・トロッタ監督

このことは主演のバルバラ・スコヴァの演じ方にも通じている。
実物のハンナ・アーレントに姿が似ているかどうかではなくて、アーレントの思想を観客に理解してもらいたいと考えて演じたのだという。ここでも「理解する」ことがキーワードになっている。とかく「情緒」に流され易い日本人の語り方とは違う。

アーレントが8分近い白熱のスピーチをした講堂は、亡命ユダヤ人インテリの受け皿になっていた学校だったようだ。だからこそ「イエルサレムのアイヒマン」を発表したことが理由で辞職を強く迫られていた。
激しいバッシングの嵐の渦中で、敢えて教壇に立つには恐怖感が募った。その感情と冷静な思考力との微妙なバランスを演じる難しさにバルバラ・スコヴァは直面したという。
確かに故国ドイツからのフランス亡命、次にそのフランスでも囚われ、そこをからくも脱出しやっと安息を得たアメリカ。その間、無国籍が18年。今度は自著が原因でまたもや居場所を追い出されるかもしれないという恐怖感は、難民でなければ実感できないことなのだろう。
重大な危険性に晒されながらも、アーレントはアイヒマンの実像にこだわった。それは、彼女なりに真実を追求してやまなかったからに違いない。

そして更に感心したのは、バルバラ・スコヴァの次の言葉だ。

・・・I mean, for me, the reason why I, you know, did also this film with Margarethe, because the topic of the Holocaust is one that has been a big topic of my life, because the generation that raised me—my teachers, my parents—they were all part of that generation.

(私がマルガレーテ監督とともに、この映画に出演したのは、「ホロコースト」が私の人生にとって大きな意味があるからです。なぜなら私を育てた世代・・・・教師も両親もその時代を生きた人なのです。)
バルバラ・スコヴァ自身は1950年、ドイツ・ブレーメン生まれ、とインタビューで応えている。

現代のドイツ人にとって、「ホロコースト」がいかに重い歴史であるか、その切実さがわかる。
もっとも、それは我々にとっても他人事ではない。今度は「大東亜戦争」が我々にとってどんな意味を持つかが問われてくるのだ。戦後世代の日本人がこの映画を見て、そのことに気付かないでは居られないはずだ。

「私は戦後世代だから関係ありません」などと言明し、恬として恥じない政治家(屋)が大臣になれるような政府や国家は信用できない。

バルバラ・スコヴァは言う。

But the thing is that he is a prototype.
(大事なことはアイヒマンはひとつの典型だということです。)
It doesn’t matter whether he personally—whether she was right on him. Other people might see a demon in him, you know?
(アーレントの指摘が正しいかどうか、ほかの人は悪魔だと見るかもしれないが、それが問題なのではありません。)

実際、論争は今も続いており、有力な反論も散見されるようだ。アーレントの所説が正鵠を得ているかどうかは留保しよう。しかし、

But these people existed, these bureaucrat. And the thing is that he never regretted. He felt justified with what he did. He said, “I obeyed the law of my country, and the law of my country was Hitler’s law.”
(こうした小役人がいたこと。そして問題なのは、彼は決して後悔していないこと。自分のしたことは正当化されると思っていて「私は国家の法律に従っただけ・・・・そしてその法律とは、ヒトラーの命令だったのだ」と主張していることです。)

And I think that is interesting for us today, you know.
How much do you obey a law? You have to think about the law.
(そして、そのことが今日の私たちにとって興味深いことですね。つまり、どれだけ法というものに従うべきか、その法というものを考えなくてはいけないのです。)

バルバラ・スコヴァは、「悪法と良心のあいだの相克」を指摘しているのだということがよくわかる。その悪法は、ナチズムという全体主義の「作品」なのだ。そしてアーレントは、アイヒマンは「thinking」を放棄したのだと指摘した。全体主義システムのなかで、思考停止に陥った凡庸な小役人が、歴史上空前の大殺戮に加担する。しかし、そこには罪の意識もない。

日本では2013年から公開され、映画は大盛況となっただけでなく、これを機会に難解な「イエルサレムのアイヒマン」が2000部も増刷されたという。

アイヒマンの年齢を調べて発見したのだが、偶然にもアーレントと同じ年(1906年)に生まれ合わせている。血なまぐさい20世紀の歴史に、不思議なカウンターパートナーとしてふたりは生まれ合わせたかのようだ。かたやユダヤ人、こなたドイツ人として。ハンナ・アーレントもきっと意識しただろう。

ところで、アイヒマンがどこにでもいるような小役人のプロトタイプだとすると、それはほかならぬ自分自身にもあてはまらざるをえない、と思いあたるのではないだろうか。
私たちは、たとえば営利企業の一サラリーマンとして、生涯の大部分のエネルギーを狭い職務範囲のなかで消耗して終わるのが普通だろう。いったん歯車に組み込まれれば、利潤をあげるためのシステムにひたすら従事していくしか生きる手段は少ない。自分が所属するシステム全体を俯瞰してその価値を吟味する、などという余裕はない。むしろ不要というべきだ。じつは、その過程で何かしら自分自身の本質が疎外されてゆく場合が多い。
この事態は、アイヒマンの「思考停止」と、どれほどの違いがあるだろうか。

こうしたその日暮らしのなかで、「巻き込まれながら巻き返す」(小田実)ような主体性など、よほど信念のある人物でないと発揮できはしない。

あとはそれが、(たまたま)アイヒマンが法廷で陳述したような「ナチスのヒエラルキー」ではなかった、というだけなのかもしれない。

アーレンとは言う
Trying to understand is not the same as forgiveness.

(理解を試みることは許すことと同じではないのです。)
しかし、アーレントはアイヒマンの「死刑」には賛成だった。

ホロコーストに限らず、「罪責と贖罪の問題」は難問だ。
まだ「人智」では解決し得ていないのではないのだろうか。政治的打算や思惑が公正さを装うために「裁判」制度を偽装しているに過ぎないのかもしれない。それは、洗練された「狡猾さ」というべきかもしれない。
このことは先立つニュルンベルク裁判も東京裁判にも通じる、ある種の「いかがわしさ」だろうか。