歴史的街並み 橿原市今井町

奈良県橿原市の知人から是非いちど見学してみては、との勧めで昨年(2013年)春に訪れた今井町。 行ってみて、その素晴らしさに感激。これは、もっとはやくに見ておくべきだった。今年も再訪してみて、また大いに得心した。まだまだ奥深い。

まずはかつて町役場だったという「華甍」(はないらか)という施設で今井町の資料を丹念に見る。街の概略を、にわか勉強で頭に入れておく。

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華甍

そして街なかに入ると、そこはまるで時代劇映画にタイム・スリップしたような街並み。おもに江戸時代初期からの建築群なのだ。しかも、今も人々の生活がそこで営まれている。
セミの抜け殻のような「博物館」ではない。

橿原市が住民と相談しながら時間をかけて、じっくりと修復に努めてきた成果だ。

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本格的なカメラも、写真技術もない自分を残念に思う。

連休中だが、幸い観光地化があまり進んでいないお蔭で人通りも少ないので、時間をかけてゆっくり見物して、その類まれな歴史的風情をたっぷりと堪能できた。首都圏近郊の有名な「伝統的町並み」を見学したことがあるが、商業化が著しくて余り馴染めなかったのとは大違いだ。

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13世紀興福寺の荘園内にその地名が初出するらしいが、「今井」が本格的な街の体裁を整えるのは16世紀中葉、戦国時代の一向宗の武装宗教都市・・・・いわゆる「寺内町」として歴史に登場する頃から。

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東西600m南北300mあまりの町域を環濠が守っていた。
それは、今もよく残っている。通りが交わるところで筋違えになったりしていて、外側からは全体が見通せないようになっているのも防備のためだった。9つの門を閉じてしまうと、いわゆる「ロック・ダウン」。

16世紀後半、大阪の石山本願寺の配下で今井町は信長の攻撃にも半年間耐えたという。石山合戦ののち、本願寺の降伏に従い、1575年には明智光秀の仲介で信長から赦免された。
商取引のあった堺が明智光秀を窓口にして、今井を滅ぼさぬよう信長に嘆願したからだそうだ。

壊滅した一向一揆が多かったなか、よくぞ生き残ったものだと思う。
特に示唆的なのは、いざ信長との戦を前にして、本来、最も前面に出て戦うべき寺の方が信徒を捨てて、先に逃散してしまったという
( これが事実だとすると、その後の江戸時代からはじまる伝統仏教の堕落・低迷振りの前兆のような話だ。
むしろ、今井では残った信徒のほうが堀を三重にめぐらして信長軍と戦い、おおいに善戦したのだというから、すごい。)

当然、経済的な利害得失の勘定もあったろうが、 「敵ながらあっぱれ」という信長の寛大な措置で、自治都市として認められた朱印状には「天下布武」と刻印されていた。岐阜出身の自分には、なじみのある織田信長の証しだ。

一時は大和郡山藩の統治下にあったらしいが、その後は江戸時代に入って200年近く、天領ながら大幅な自治権を認められていた。商家の富力の賜物だという。
司法・警察権の一部を許された「町民自治」の気風があった。近在の商人も町内に集まり、主に綿・木綿・木材を扱い、両替商も発達したようだ。「今井札」が発行され、中には大名に金を貸す(大名貸し)豪商も現れた。
町衆としての掟も整備され、火消しの取り決めなど綿密に協力しあっていたようだ。商人の財力で町衆文化も興隆した。

17世紀に創建されたという惣年寄の今西家の豪壮な邸宅の中で、末裔にあたある当家の方が丁寧な説明をしてくれた。
大坂夏の陣では徳川方についたので、豊臣方からも攻撃を受けたようだがよく護り切った。徳川方につくという選択には、当時の町衆の先見性があったからだそうだ。
「生き残るための智慧を集めたのです」

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江戸時代には「海の堺」と並び、「陸の今井」として豪商たちが活躍した。「奈良の富は七部が今井」と謳われたほどの繁栄ぶりが、今も街並みの景観、風情に残る。
最盛時には戸数1000件、人口4000人を数えたという。

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今西家は今井町の中核である一向宗(現浄土真宗)称念寺の近くにあり、自治都市であった時代のうち約110年くらいは、簡易裁判権を握る町方実力者(惣年寄)の邸宅。
建物内には取り調べのための8mを超える大きな土間があって、そこは軽犯罪を取り調べるための、いわゆる「御白洲」になっていた。
ここで白状しないものは2階の「燻し牢」で煙に燻される。白状したあとは隣の牢屋に入れられたようだ。
こうした自治の在り方も大いに興味深い。

この土間の天井には3本の大木の梁が並んでいて、そのうち2本は創建時の大木で400年近い。竈からあがる煙に燻されて黒々としている。今も邸宅を頑丈に支えている。
もう一本(下から見上げた写真では一番上)は50年前(昭和36年)に改修されたときに取り換えられた木材なのだが、よく見ると大きな割れ目が走っている。 つまり、たった50年で割れ始めているわけだ。
そうなる理由が興味深い。
もともとの2本は創建当時の智慧で、川で流されて水に浸されたうえに、設置されてからは生活の焚きもので燻されて鍛え上げられたもの。これに対して50年前に改修の時に取り替えられた新しい木材はトラックで運ばれたもの。現代の木工技術には、木材を強化する伝統技術がもはや残っていないからなのだそうだ。
日本は鉄筋コンクリートの文化になってしまったので、木材加工の伝統が枯渇してしまったのだろう。

先人の建築技術を学ぼうと、関係者がよく見学に訪れるそうだが、これは大いに考えさせられる。手前が50年前(昭和36年)で後ろ2本が創建当時からのもの。おもわず唸る古人の技だ。

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同家は西の壕の外側からみると、城郭(外観はミニ二条城を髣髴させるような形状)のように見えて外敵を威嚇する。邸宅の北側の出入り口(写真正面向かって左側)は通りに突き出ていて、その戸板は木製オートロックだった。つまり、表面は町屋風の形状にしている。
街並みとの調和を考えて設計されたのだろう。

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町内には、これ以外にも江戸時代の豪商の町屋が多数並んでいて、その多くは今も子孫が住んでおり、酒屋、漬物屋、豆腐屋などとして商いをしているというから素晴らしい。先祖代々の生活史が深く織り込まれているに違いない。
酒屋さんは16代目だという。

世界遺産になって整備はされているけど、今は誰も住んでいないような「観光地」ではないのだ。剥製品ではない。今に生きている。

案内の方の説明では「世界遺産」登録も話題になったらしいが、へたにそんなものなると、かえって自分たちの町ではなくってしまう、という理由で反対したのだという。これも考えさせられる話だ。

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近くを流れる「飛鳥川」に橋がかかっていて、その袂に樹齢420年という大きなケヤキがある。街の歴史と軌を一にしている。

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「専修念仏」の一向宗の武装都市であった今井は、戦国時代の外敵・・・・偸盗や武士団だけではなくて、旧仏教など他宗派からの攻撃もあった・・・・からの攻撃に耐え、平和な時代には自治を施して今日まで生き残った。

織豊政権から徳川時代、そして現代まで、時代とともに変遷する権力支配の変化の中を、町衆の団結、智慧と努力でかいくぐり続けた。
それ自体が偉大な歴史だと思う。

よく調べると寺よりも古い神社があるが、これはもともとは寺だったという。つまり一向宗よりも前、たぶん興福寺の系統の旧仏教の寺だったのではないか。旧仏教と一向宗信徒との間でも、いわば「宗教紛争」があっただろう。

町には今、私が確認しただけでも神社があり日蓮宗や浄土宗など他宗派の寺も共存している。もともと一向宗称念寺が町の菩提寺だが、後に同派の寺が一箇寺参入し、そのあと浄土宗、日蓮宗など他宗派が寺を開いたという経緯も面白い。
たぶん、諸派が混在し始めたのは江戸幕府の宗教政策がきっかけだろう。

江戸時代以降、いつの間にか仏教宗派が混交しているのだ。これも象徴的な歴史だと思う。その経過を勉強してみると、面白い宗教史研究になるだろうと思った。

ここには、まだまだ調査研究に値する先人の経験と智慧が多く埋もれているのではないだろうか。 9件の重要文化財、3件の県指定文化財がある。

今も橿原市が時間をかけてじっくりと修復している。

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