映画「東京物語」(4)・・・「家」と「嫁」

 長女志げ(杉村春子)の父母に対する冷たさは、血を分けた親子であるがゆえに遠慮会釈もない。しかも全編を通して、志げ自身にはその自覚がまったくないようなので、なおさらに酷薄に見える。
しかし、それは他人の眼で彼女の振る舞いを見ているからであって、ふと我に返ると、実は自分自身もまた志げと似たことをしていたことに気付く。

その父母は、もうこの世にいない。

   思い出は狩の角笛
   風の中に声は死にゆく
                                   アポリネール

 志げに比べると紀子はもともと他人だから、義理の親子の間には我侭の通らない遠慮がある。それゆえに、舅姑との間でお互いに対する気配りが働くのだ。従ってその優しさにはある面、「他人行儀」が透けて見える。
小津映画はとても明晰だ。

 志げに追い出されて「宿無し」になった義母とみを泊めた翌朝には、乏しい給与の中から「お小遣い」まで差し出す。そのいじらしいまでの心遣いがとみの胸を打つ。
次男昌二が戦死してすでに八年もの月日が経たつのに、今も平山家の未亡人として一人東京で倹しく生きている紀子に、済まない思いをとみは昨晩告白したばかりだった。

酒を振舞う紀子
酒を振舞う紀子

 紀子が、優しい心根の人であるというだけではない。
彼女は21世紀の今頃ではほとんど見かけられない、古風な「嫁」の理想像を演じているのだろう。

夫の「戦死」という不運(表向きは名誉であった!)を甘受し、「平山家」の一員であり続けるという節操・・・・つまりは「嫁」というあり方、その節操が孤独な紀子を支えもし、縛ってもいるのだろう。この映画のもうひとつの重要なテーマではないかと思える。
愚かな戦争が彼女の人生を根本から歪めたのだ。多くの戦中派世代がそうだった。

 私の母も「私達の青春は戦争の犠牲になったのよ」とよく述懐していた。この言葉をじかに聞いた私は、このことを後世に伝えねばならないと思う。

紀子の生き方には、戦前まで堅牢にあった「家」の観念が基盤に刻まれていると思った。そこにある種人間の気高さを感じるのは、演者が原節子だからというだけではないだろう。いまどきそんな生き方が復活することはないが、自分の権利だけをかしがましく主張する生き方と比べて、簡単に甲乙つけがたいと感じるのは、私が保守的だからだろうか。

 言うまでもないが、現代的に考えれば、紀子はまだ若いし子供もないのだから、一定の期間(喪)を経過してから再婚することに、なんらの咎めもないだろう。しかし、この映画が発表された昭和28年(1953年)の時点で、紀子に限らず多くの「戦争未亡人」が貞節を堅持して生き抜いた話を、ある種の美徳として私たちは子供の頃によく聞いた。立派に子を育てあげ、亡き夫との約束を果たすことを心の支えとして生き抜いた場合もあったのではないだろうか。
戦争を知らない私たちから見て、人生を立派に全うされた方々がいたことは確かだと思う。そこに人間の「偉さ」を認めるべきだと思う。

ただし、戦後世代の私自身は「嫁」という文字には大いに抵抗がある。
まるで「家」のアクセサリーみたいな漢字の印象が受け入れがたいので、この言葉は使ったことがない。嫌いな言葉といってもよい。にもかかわらず、最近は若い世代で「嫁」と言う言葉をなんのわだかまりもなく使う人がいて驚かされる。
煩わしいこだわりかもしれないが、私にはある種の「封建性」を感じる。彼らはたんに「鈍感」なだけなのかもしれない。

 一方で、「家」という制度を批判することは容易いが、これを単純に合理化するだけでは、人間の生き方の何か大切な「要素」が脱落するようにも思う。くっきりと個別化された核家族にあっては、夫婦の負担がしばしば過重ではないだろうか。
長く日本人社会に普及してきた「家制度」を評価する力量は私にはないが、図らずも「家の崩壊過程」を描いたこの映画で、紀子の生き方の芯にそのいち要素が垣間見えるように思った。

ともあれ、その「嫁」を当代随一の美人俳優と謳われた原節子が演じたことが演出効果をあげたのだろう。私など戦後世代には、その時代感覚を斟酌しながら鑑賞しないと、この映画の精緻さを味わえない。
私たち以降の後の世代となると、尚更だろうと思う。

姑に仕える嫁
姑に仕える嫁

 同時に、亭主の酒癖に悩まされた従順な妻とみ、そしてその母の悲しみに深く心を痛めた娘志げという、良くある家族の様相もきちんと織り込まれていることを見逃せない。この時代、表面的には男が威張っているのだが、実は「甘え」だと思う。外面が良い夫ほど家に帰ってからの家族へのしわ寄せがきつくなるバランスは、ある種の比例配分のようですらある。
息苦しいくらいの濃密な家族の「絆」のひとつの側面かもしれない。相対的にみて「個」が弱いのだろうか。もちろん、短絡的にその良し悪しを決めつけられないが、やはり大家族時代の日本人は個の自立が弱かったのかも知れない、とも思えるがどうだろうか。

 最初見たときには、長女の親に対する冷酷さだけが印象に残った。
ところが、よく見ると、志げの親に対する姿勢にも、相応の一理があると感じさせられる機微が緻密に描かれていることを発見する。

それは、久しぶりに出会った尾道出身の旧友三人で痛飲したあげく、泥酔状態の沼田(東野英治郎)を伴って志げの美容院に父・周吉が帰ってきたときのシーン。皆寝静まった深夜だ。
近くの駐在さんが、父と見知らぬ酔漢を連れて来た。今のように無人の駐在は少なかった。「お巡りさん」と呼ばれるくらい地域に密着していたのだ。
酔った沼田は元尾道の警察署長だから、若い駐在さんにも「御苦労」と、まるで上司のように敬礼を振る舞う。

叩き起こされた志げ夫妻の会話で、平山家の過去が蘇る。

 今でこそ好々爺の平山周吉だが、長男長女が多感な子供の頃、父は酔って帰ってきては妻や子供たちに嫌な思いをさせていたのだ。家長の「甘え」だと思う。外面の良い周吉は、そのぶん家族にしわ寄せを押し付けたのかもしれない。

しかし娘にとって、泥酔してさんざん母を困らせた父親の狼藉は今も心の傷なのだ。そんな家に生まれあわせた志げは、とても嫌だったのだろう。いま尾道を捨てて東京で頑張っていることには、そうした動機があったのかもしれないのだ。

「・・・・お父さんは昔よく飲んだのよ。宴会だっていうとグデングデンになって、なんだかんだってお母さんを困らせたもんよ。嫌でねえ、あたしたち・・・・それが京子がうまれてたころからすっかり人が変わったみたいにやめちゃって、いい案配だと思っていたのに。・・・・」

歳の離れた末っ子の京子(香川京子)には、そうした原体験がない。
後半で描かれるが、母とみの死をめぐる兄姉の親への冷たさに対する末っ子の反発の一因は、ここにあるのだろう。

志げの懐旧談「・・・・嫌でねえ、あたしたち・・・・」
それは長男長女に共通の体験なのだろう。案外、戦死した昌二にも少しばかり共有されていたのかもしれないが、歳の離れた三男敬三(大坂志郎)や次女京子にはない。昔の大家族は兄弟姉妹でも年齢差が大きいので、親に対する心理的な距離感の違いがあるのだ。

かつての周吉の酒癖の悪さについては、紀子のアパートでのとみとの会話にも出ていた
「お父様お酒お好きなんですの?」
とみが応える
「・・・へえ、昔しやぁよう飲みなさったんよ。うちにお酒が切れたら、とても機嫌が悪うなって、おそうなってからまた出て行ったりしてなぁ。」
「・・・・ウーム」と苦笑する周吉。
「・・・・・男の子がうまれるたんびに、この子がおおきゅうなって酒飲みにならなきゃいいと思って・・・」
というとみの回想。

私の母もよく「酒はキチガイ水って言ってね、飲み過ぎたらだめだよ」と言ったものだが、子供の私にはなぜそんことを母が教訓するのかわからなかった。

周吉の酒癖の悪さは、妻や子供たちの悩みのたねだったのだ。
それが末娘(京子)の誕生のころからぴたりとおさまったという。

酒を振舞う紀子
酒を振舞う紀子

実はこの話で、私自身も自分の祖父を思い出した。
祖母の話では、戦前、事業家で羽振りが良かった祖父も地域では有名な「遊び人」だったそうだ。しかし空襲で家を焼失し事業が壊滅したあと、ぴたりと品行方正になった、と聞いたことがある。この場合は敗戦体験も大きかったのだろう。

大正世代の父や叔父は、祖父の派手な遊び振りを確かに目撃しているのだが、私たち孫にはそんな祖父の姿は想像もつかないように寡黙で静かな晩年だった。周吉と同じ明治の人だった。

「母危篤」の報に尾道に集まった平山一家。

実母とみの深い昏睡状態や瞳孔反応からみて、医師である長男・幸一は内々にその死が近いことを父と妹に告げた。面白いことに、このとき一番最初に泣くのも長女志げなのだ。
そしてここがまことに志げの真骨頂なのだが、母の遺体の前でさっそく気を取り直して、長女らしくそくさと葬儀の段取りと遺品の整理に取りかかる。

その切り替えの鮮やかさはコミカルでさえある。
「・・・・・紀子さん喪服持ってきた?」
驚いて「いいえ」と答える紀子に
「そう、持ってくりゃよかったのにね」
は、なんとも無神経な言葉だ。

もともと他人の紀子が義母の「危篤状態」に、喪服を持参するなど、不躾な態度に出るはずもない。
志げ自身は東京から来るときに、このことを予感して兄・幸一に提案してさっさと喪服も持参しているのである。

老父母と同居する末っ子の京子に
「紀子さんのぶんも借りときなさい」
と指図する、あっけらかん振りには妹たちも即座にはついてゆけない。

とみの臨終が近い
とみの臨終が近い

「小津映画」を賞賛している外国人の鑑賞者たちは、こうした細部の微妙な演出を、どれだけ理解しているのだろうか。とても興味深く思う。一度海外で話し込んでみたい。