平山とみの葬儀での遺族の席順を見ると、夫周吉が「喪主」のようだ。周吉から始まって末席の京子までの並びが、会葬での「平山家の秩序」なのだ。
一方、葬儀が終わって家族だけの「精進おとし」の場面では、主席は長男・幸一になっている。つまり、このときは長男が「家督」を継いでいることを表しているのだろう。このあたり、「長幼の順」というのはなかなか細かい秩序感覚だ。

家督を譲った周吉と、長女志げは左に並び、三男の敬三が右側の上に座っている。男子だからだろう。
その左は亡くなった次男昌二の嫁・紀子。
そして御飯をよそおうのは、末娘で未婚の京子だ。この席順は、この時点での平山家の「ヒエラルキー」を正確に表現している。
日本の大家族制度の秩序感覚を、きちんと反映しているものだと感心した。このまま幸一が尾道に留まれば、長男幸一への主役交代で「家」が継続されるのだろう。
しかし、それは周吉ととみが主宰した一家の、解体の始まりでもあった。
やがて周吉が亡くなったときに、この並びがもういちど再現されるだろうが、それで「尾道平山家」はピリオドになる。

私自身の近親縁者をみても、同様の推移が確認できる。
戦後日本は地方の大家族が解体して、都市の「核家族」に編成替えする変化が大規模に起きた。
やっと葬儀が終わったばかりなのに、そそくさと母親の形見分けの話に入る場面では、長女志げが了解を得る相手はもっぱら長男だ。おそらく、二人は歳が近いので尾道でともに育った。とみが亡くなった今は、事実上押しの強い志げが采配権を振るっている。長男はもっぱら同意する役割だ。
志げのあからさまな態度が随所に出ている。
「お父さん、お寂しくなるわねぇ。」
「あんまりお酒飲みすぎちゃだめよ。」
「もっと長生きして頂かなきゃ」
と父をいたわるようでいながら、周吉がトイレに行っている間に
「お父さんが先のほうがよかったわね。お母さんだったら東京に来てもらたって、どうにかなるけど。」
と、聞き様によってはあまりに不躾な言葉を連発する。他の兄妹たちには、にわかに賛同するのが憚られる。
まだ「尾道平山家」に残っている末娘、京子の内心は複雑だ。23歳の京子は兄姉とは世代の違いがある。
長男・長女は周吉ととみの「平山家」を離れて東京で世帯を持っているから、もはや自分の新しい「家」を中心にした生活感覚に移行している。
この違いが、京子の姉・兄に対する違和感や反発の原因ともなるのだが、その気配に気づいているのはむしろ、もともと「他人」である紀子だった。

志げも幸一も仕事と生活があるので、そそくさと帰り支度に入った。
京子にとってみれば、父周吉とともに悲しみも癒えないうちの兄姉の変わり身の早さは割り切れない。三男の敬三もそれにつられて一緒に帰ると言い出す。出張先から葬儀に加わったからまだ職場に仕事の報告もしていない。言わなくてもいいのに「野球の試合も見たいから」などと言い出す。独身の気楽さ。
(また、ここで出張先が「松阪」であることが面白い。小津監督は東京生まれで伊勢松阪育ちなのだ。松阪市を訪問してみると、生家跡には「小津安二郎青春館」があって、私も一度観覧したことがある。
同じ市内には本居宣長記念館もある。小津監督自身が「もののあわれ」を表現したとかいうエピソードがどこかにあった。同郷の先人・本居宣長の影響なのだろうか。)
「そうかぁ、皆帰るか」
盃を持つ、周吉の寂しげな言葉もむなしい。
例によって志げが後家の紀子に
「・・・紀子さん、もうちょっといいでしょ、残ってくれる ?」
紀子は、残留を受け入れた。
長男幸一の妻・文子は自宅を兼ねた零細な町医院を空けるわけにはいかないし、就学児童の子供もいるから葬儀に参列していない。勢い、次男の「嫁」が独身の身軽さから、後始末を託されるという格好になったのだ。東京で周吉ととみが蒙った絵柄が、そのまま尾道の葬儀の後始末で再現された。
後始末を紀子にさせるのは志げや幸一の得手勝手に見えるが、志げが邪険なのではない。この時代「嫁のつとめ」が暗黙の前提だからだろう。紀子が独身の勤め人で、子供もいないからだけではないのだと思う。
しかし、ずけずけと采配する志げの振る舞いは、実妹京子にとっては心外で、その反発感は鬱積していった。
まだ若い義理の妹・京子のサポートと、寂しげな周吉へのケアもあるし、紀子は嫌な顔ひとつせずに志げの指示に従った。

映画は全体として「家の崩壊過程」を描いている。
大家族だった「家」の観念が残っている周吉の世代と、東京で「核家族」を営んでいる子供世代のギャップ。
敗戦後八年、この二年前に日本は独立し、三年前から始まった朝鮮戦争の「特需」の恩恵によって、経済復興のきっかけをつかみ波に乗る。やがて高度成長に入る直前の東京の姿を、ときどき入る工事現場や工場煙突などのカットが象徴している。
お隣の朝鮮民族の悲惨のうえに、日本の復興が足がかりを得た事実を見逃せないと思う。
未亡人になって八年の紀子は独り身のままだが、生活と仕事に忙しい長男・長女よりも舅姑にに仕え親孝行をつくす。
六十年以上も前の古い映画なので、戦後生まれからみると、紀子の従順さがやや古風にさえ感じられる。
ただ、その献身には、「家」の観念を前提とした「嫁」としての道徳規範があると思われる。
一方、生前の姑のとみは東京でひとり身のまま残っている次男の嫁の境遇を心苦しく思っていた。再婚話があれば気を遣う必要はないと打ち明けるが、紀子はとっさに
「このほうが気楽なんです。」「勝ってにこうしてますの。」「歳をとらないことにしていますの。」
とその場しのぎの言葉ではぐらかしていた。
しかし、その晩寝つかれなかった。生前のとみの杞憂は図星なのだ。
紀子の中の自己矛盾を言い当てているからだろう。

1920年(大正9年)生まれの原節子は、私の父母のすぐ上の世代。品のある言葉使いも東京の山の手を感じさせる。同時にこの世代は、母や叔父がかつて述懐していたように、戦争で一番被害を受けた「戦中派世代」なのだ。日本史上空前絶後の戦災を青春時代に体験した。(たまたま尾道は空襲がなかったらしい。)
ひとつの疑問は、紀子の実家については何も描かれていないことだが、ひょっとすると実家は東京の空襲で壊滅、喪失していたのかもしれない。
しかし新婚所帯を持った次男昌二はあっけなく戦死、子供もいないまま東京で寡婦となってしまった。いわゆる「戦争未亡人」。尾道を捨てた義理の兄・姉も、それぞれの東京での「家」の構築に余念がない。
尾道の平山家は舅とその末娘京子だけになったが、いずれ京子も嫁ぐ可能性が高い。確かに紀子の行く末は、実に心細い。
時代の荒波に取り残されそうな、「戦争未亡人」の不安がひとり身に迫る。
