三島由紀夫「豊饒の海」結末をめぐって

確か19歳か20歳のころ、三島由紀夫の「豊饒の海・全四巻」を読んで、その豪華絢爛たる文体に圧倒された思い出がある。
最後の「天人五衰」の原稿には末尾に「昭和45年11月25日」と記され、編集者に原稿を手渡した直後、作者は自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで自衛隊に決起を促したものの志を果たせず、あの衝撃的な割腹事件をしたという顛末だった。
したがって、常識的に考えるとこの「豊饒の海」こそは作者のライフ・ワークということになるが、その結末の理解はとても難解で、甲論乙駁いまだに定説はないように見える。


ここでは、第一巻から華麗な「輪廻転生譚」に翻弄されてきた目撃者で主人公の本多が、自らの死を予感して、どうしても訪れずにはいられなかった法相宗の「月修寺」が舞台になる。そこには、第一巻「春の雪」で本多の親友・松枝清顕との悲恋のうちに出家遁走した聡子が今は門跡として生きているはずだ。転生劇の発端になった悲劇の人だった。


 およそ文学の素養のない私だが、時間があれば、もの好きながら奈良にあるこの尼寺を訪ねてみたいものだとかねて思っていた。作品を読んでからはや半世紀経つ。
夏の一日、思い切って訪ねた。近鉄奈良駅から車で20分ほどで目的の「圓照寺」(「月修寺」のモデルとされる)参道入り口に着いた。
小説にあるように猛暑のなか、寺の門に向かって長い参道を歩く。

作品中では、主人公本多はなんとか庭にまで案内されている。

ところが、あれほど期待したのに、60年ぶりでやっと会えた門跡の聡子は、意外にも松枝清顕についてはまったく知らぬ存ぜぬという。確かに彼女は俗名・綾倉聡子その人であるはずなのに。ましてや清顕との悲恋そのものも、まったくあずかり知らぬという。
 それまで長々と語られてきた華麗な輪廻転生劇が、まるで根本的に覆されるような結末。さっぱり理解できない。読者は、最後になって煙に巻かれたような次第に置かれる。
「天人五衰」の末尾を引用しよう。

「・・・これと言って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂莫(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・・」

夏の烈しい直射日光が驟雨のように庭石に突き刺さっていながら、庭それ自体はシンとして音もない、という寂滅のラスト・イメージを見事に描く筆致には魅了されたものだ。
このシーンには仕掛けがあって、実は「数珠を繰るような蝉の声がここを領している」のだが本多の聴覚にはない。
これは大事なポイントだと思う。「かしがましい蝉の声があたりを領しているが、音は聞こえない」という仕掛け。本多の耳にはなにも入っていないというのだ。

今年夏の猛暑のなか、その寺の門に向かって長い参道を私もまた歩く。三島由紀夫もきっと取材に歩いたのだろう。
主人公本多は81歳の衰えた体を辛うじて杖で支えながら、あえぐようにたどり着いたことになっている。

途中に苔むした側面が見られる。

やがて門が見えて来た。開け放たれている。

あの作品の通り夏の日盛りだ。私の期待も高まった。
ところが・・・。

残念ながら、門に入ったところで、これ以上は立ち入りが禁じられていた。
「門跡寺院」は了解なく立ち入られないらしい。

仕方がないが、無理はしないで帰ろうと思う。ここまでこれただけでも良いではないか。

しかしそれ以上に大切な事実を思い知った。
それは当たり前のことながら、この寺があくまで小説の「モデル」に過ぎないのであって、実際は臨済宗妙心寺派の「圓照寺」という門跡寺院だったということ。
これだけでも十分に訪問した甲斐はあった。

つまり、三島由紀夫が宗派をあえて「法相宗」にした意味が鮮明になったからだ。

この小説を理解するには「法相宗」の教義「唯識」への理解、「空観」の把握が絶対に欠かせないのだ。
私はじゅうぶん満足した。

 往き帰りの所要時間は4,50分くらいだったろうか、人っ子ひとり会わなかった。確かに「数珠を繰るような蝉の声」以外には。