ロッキード事件(11)  「壁を破って進め」

「壁を破って進め」・・・・・私記「ロッキード事件」  講談社1999年5月刊

国境の壁

 ロッキード事件が勃発したのは、アメリカ上院外交委員会の多国籍企業小委員会が開いた公聴会でコーチャン社長の証言をとった1976年2月6日午前10時(米東部標準時)

日本における同社の航空機売込みにあたって「右翼の大物フィクサー児玉誉士夫を通して日本政府高官へカネが渡った」という衝撃的な証言が日本に伝わるや、たちまち国内世論は沸騰した。

76年2月5日朝日新聞

「壁を破って進め」(1999年 講談社刊)は、事件当時、法務省刑事局長であった安原美穂氏のもとで、刑事事件捜査における米国との協力を担当していた堀田勉氏(同法務省刑事局参事官のち東京地検特捜部)の、貴重な記録だと思う。 このときの対米交渉の現場での苦闘を再現するに当たり、著者は一部架空の人物を登場させるなど小説風の手法も取り入れて国境を越えた「司法共助」の経過を顧みた。

事件発覚当初、
「証拠は全部アメリカにある。それをどうして入手すればよいのか。・・・・(社長のコーチャンや東京支社長のクラッターのような人物)が日本にいたら、すぐにでも調べられるのにと思うが、もう、彼らが日本に来ることは絶対ないであろう。刑事事件の捜査にとって国境という壁は、この上なく高い。”どう道を開けばいいのか”と私の頭が問う。”なんとしても、道を開きたい”と私の胸が叫ぶ。問いと思いがぐるぐると全身を駆けめぐっていたが、私は、結論を出した。”やってみるしかない”」
(同20-1ページ)という状況だったようだ。
しかし、
当時の日本側捜査当局では
「『とてもアメリカ政府が秘密資料をくれるはずがない』と検察の幹部も法務省の幹部も思い込んでいる」 (同29ページ) という実情で、
「これだけのすごい資料がアメリカの議会で公表され、日本中が大騒ぎになっているというのに、検察庁も法務省も警察庁も妙にシーンとしているのは、『とてもやれそうにない』という判断があ」(同)ったからだという。

まだ今日ほどボーダレスな犯罪が多くはなかった70年代前半当時、日米にまたがってこれだけ大きなスケールの汚職事件を扱うのは、今日とは比較にならない困難が予感されたことだろう。インターネットもない時代に、太平洋をまたがった前例のない労作業であったことがよくわかる。どうこの壁を乗り越えるか。しかも時効の壁も目前に迫っていた。

「しかし、なんとしても、私はこの事件をものにしたかった。こういう事件を解明したくて、検事になったのである。」(同10ページ)
法務省の担当官としてアメリカに派遣されていた直後の事件であっただけに、堀田氏は内心はやる思いであったことだろう。司法当局の一員としても千載一遇の機会だった。

「壁」は「国境」だけではない。
国内政局では当時の三木首相も「日本政府の名誉にかけて真相を究明する」と大見得を切っていた。そこには少数派閥出身ながら、この事件を奇「壁を破って進め」(1999年 講談社刊)は、事件当時、法務省刑事局長であった安原美穂氏のもとで、刑事事件捜査における米国との協力を担当していた堀田勉氏(同法務省刑事局参事官のち東京地検特捜部)の、貴重な記録だと思う。 このときの対米交渉の現場での苦闘を再現するに当たり、著者は一部架空の人物を登場させるなど小説風の手法も取り入れて国境を越えた「司法共助」の経過を顧みた。事件発覚当初、「証拠は全部アメリカにある。それをどうして入手すればよいのか。・・・・(社長のコーチャンや東京支社長のクラッターのような人物)が日本にいたら、すぐにでも調べられるのにと思うが、もう、彼らが日本に来ることは絶対ないであろう。刑事事件の捜査にとって国境という壁は、この上なく高い。”どう道を開けばいいのか”と私の頭が問う。”なんとしても、道を開きたい”と私の胸が叫ぶ。問いと思いがぐるぐると全身を駆けめぐっていたが、私は、結論を出した。”やってみるしかない”」(同20-1ページ)という状況だったようだ。しかし、当時の日本側捜査当局では「『とてもアメリカ政府が秘密資料をくれるはずがない』と検察の幹部も法務省の幹部も思い込んでいる」 (同29ページ) という実情で、「これだけのすごい資料がアメリカの議会で公表され、日本中が大騒ぎになっているというのに、検察庁も法務省も警察庁も妙にシーンとしているのは、『とてもやれそうにない』という判断があ」(同)ったからだという。まだ今日ほどボーダレスな犯罪が多くはなかった70年代前半当時、日米にまたがってこれだけ大きなスケールの汚職事件を扱うのは、今日とは比較にならない困難が予感されたことだろう。インターネットもない時代に、太平洋をまたがった前例のない労作業であったことがよくわかる。どうこの壁を乗り越えるか。しかも時効の壁も目前に迫っていた。「しかし、なんとしても、私はこの事件をものにしたかった。こういう事件を解明したくて、検事になったのである。」(同10ページ)法務省の担当官としてアメリカに派遣されていた直後の事件であっただけに、堀田氏は内心はやる思いであったことだろう。司法当局の一員としても千載一遇の機会だった。「壁」は「国境」だけではない。国内政局では当時の三木首相も「日本政府の名誉にかけて真相を究明する」と大見得を切っていた。そこには少数派閥出身ながら、この事件を奇貨として自らの権力基盤を強化しようとする政治的な打算もおおいに働いていたことだろう。つまり、上からの捜査環境への介入も危惧された。


2月18日に開かれた検察首脳会議では、事件の扱いについて深刻な議論がかわされたという。ここで堀田氏は予め報告書を出したうえで日米にまたがる捜査がじゅうぶん可能であると主張した。それは「私がここでえらそうなことを言えたのは、半年ほど前まで三年半、在米日本大使館に派遣してもらったからだ。」(同48ページ)
ある程度の感触もあったが、決して確実な勝算があったわけでもない。人と仕事の出会いは不思議だ。これに出会うために自分のこれまでがあったのだと思えるような「使命感」に燃えたことだろう。

そして、当時の東京高検の神谷検事長の
「『この事件の捜査が大変なことは、誰もがよくわかっている。・・・・しかし、もしここで、うまくいかない可能性があるからという理由で検察が立ち上がらなかったら、検察は、今後20年間国民から信頼されないだろう』」(同48ページ)
という悲壮な決意、布施検事総長の「責任は全部取る」との重い覚悟表明でやっとゴー・サインが出た。日本検察にとって存亡をかけた背水の戦いになった。
こうして前例のない 日米「司法共助」の取り組みが始まったのだった。

それから20年後。

96年夏、安原氏安原氏は唐突にロッキード事件の本を書くと堀田氏に打ち明けた。 両氏は同郷(京都)でもあった。
あとがきを引用してみよう。
「(安原氏の告白を聞いて)驚いたのは、法務・検察の職にある者は、事件のことは書かないというのが常識だった・・・・法務・検察とときのさまざまな政治勢力とのせめぎ合いは、まさに日本の正義のあり方そのものを問う貴重な事実であろう。・・・・それ以来、私は、期待と不安とをもちながら本のたよりを待っていたが、安原さんは97年3月、亡くなってしまった。」

安原夫人の話では
「主人は、亡くなる少し前に、『堀田君に逢いたいなア』と言ってました」と聞き、私は見舞えなかったことを激しく悔やんだ。安原さんが私に言おうとすることがあったとすれば、それはロッキード事件のこと以外には考えられない。『私たちは頑張った』ーそれが、安原さんが世に残したいメッセージだったのではなかろうか。それが、戦った者のいのちのあかしだからである。
私が、ロッキード事件について書こうと決意したのは、その時である。」(同217-9ページ)
尊敬する先輩を弔いたいということだろう。このまま黙っていれば波風はたたないかもしれないが、それではやはり「戦った者のいのちのあかし」は埋もれてしまう。
職業人として守秘義務もあるなか、公開できる範囲を見定めて後世に残すべき事実を編み出したのだろうと思う。

 堀田勉氏の立場から書けるのは、この日米の司法共助の経過、コーチャンへの嘱託尋問交渉などだが、事件全体の規模はとてつもなく大きく、関連事項も多岐にわたる。「これをそのまま書いたのでは、読み人が迷路に入ってしまう。」(同219ページ)ことも考えられる。そこで思い切って丸紅・田中元首相の捜査線に絞り込むこととしたという。
つまり、当初は疑惑の「本線」とみられた児玉ルートではなくて、丸紅⇒田中角栄ルートだ。こうした限定があるから
「これは『私記ロッキード事件』である。つまり、私の目に映った事件であって、資料としての価値はない。書きたかったのは、検察の心意気である」(同220ページ)」
と断ってはいるものの、内容はとても貴重な歴史証言だと思った。
もちろん、安原氏が書き残せたら、もっと司法当局や政界中枢の露わな動きが記録されたのかもしれない。

 米側資料の提供をもとめるためには、その取扱いについての協定の詰めなど、ほとんど前例もないなかでの手探りの作業であったことがよく分かる。それだけでも大変だったが、提供された資料だけでは日本の国内捜査には不十分なため、さらに米側司法に依頼した「嘱託尋問」では、 そもそも(当時の日本に)そんな制度すらない「刑事免責」を、米側が納得する形でどう日本側が提供できるかが大問題だった。そして目前に迫った時効の壁が大きくのしかかる中で、これまたロッキード社側弁護団の巧緻にたけた引き伸ばし作戦にどう打ち勝って尋問を実現するか、まさに神経のすり減るような戦いでもあった。
国情も法制も違うなか、日米刑事訴訟法の解釈の違い、国際・国内政治の壁、マスコミの取材攻勢による混乱など予断を許さない激動のなかでの知力を尽くした格闘ぶりは、半世紀後の今日読んでもかなり手応えがある。

 時あたかも日産のゴーン会長の事件が日仏はじめ関係諸国を巻き込んでの国際犯罪として報道を賑わしている。また最近でも日本人の振込詐欺の大掛かりな犯罪者拠点がタイ国の観光地で摘発されるなど、国境を軽々と超えた犯罪が現実に多発しているご時世なだけに、今改めてグローバルな捜査であった「ロッキード事件」の実際を、法務省の担当官としてアメリカに派遣され、直後に検事として日米司法共助の現場を戦った堀田氏の経験から振り返ることは貴重な歴史検証となるだろう。

なかでも、協力関係(司法共助)を築く上で日米の捜査関係者の間で確認された共通の概念を表す言葉「インタレスト・オブ・ジャスティス」(正義のため)、「エンド・オブ・ジャスティス」(司法の目的)が心に残った。
以下、本文を引用しよう。
「『やあ、ミスター堀田。きみが来て、日本の捜査機関にわれわれの秘密資料を渡す話がまとまり、それで日米司法取り決めを結び、われわれは、 エンド・オブ・ジャスティス のため、いろいろな国に資料を提供し、協力している』キーニィは、いかつい、真面目な表情をくずさずに言った」
「私たちは、ご協力ををとても感謝しています。必ず エンド・オブ・ジャスティスを達成するよう、われわれ日本の捜査機関は、全力をあげて捜査に取り組んでいますので、これからお願いしようとしている嘱託尋問の実施についても、可能な限りのご協力をいただければ、私たちはそれをとても感謝致します 」
( 壁を破って進め (上)191-2ページ)
米司法省刑事局次長キーニーィ氏と堀田氏のやり取りの会話だ。

本書で「Interest of Jastice」「End of Jastice」という言葉を初めて知ったのだが、独裁国家ならばいざしらず、少なくともデモクラシーという共通の価値観を基盤に持つ法治国家のあいだでは「法の正義と目的」を実現するためという目的観が協力関係を築くための共通概念なのだと知った。

 この直前にニクソン大統領のウオーターゲート事件や田中金脈事件があった。ロッキード事件発覚の背景を考える場合、やはりこの文脈は見逃せない。
1972年にニクソン再選を図るアメリカ共和党の大統領再選委員会が、ウォーターゲートビル内の民主党本部に盗聴器をしかけようとした事件。2年後の1974年、ニクソン大統領は引責辞任。
いっぽう、 田中首相の辞任もその金脈が原因とみられていた。思い出してみても、「権力者の不正は許さない」という世論が日米ともに沸騰した時代だった。これも エンド・オブ・ジャスティスを達成するための強い動機となったことだろう。

それにしても、今振り返ってみると、この時代に比べて最近の日本の政治家や官僚の不祥事や不正事件の姿があまりにも「小つぶで惨めったらしい」という印象を受ける。そのうえまた、本書に生き生きと記されているほど今日の「検察」が「正義」を実現しているのかどうか、なにか心もとない感慨が湧いてしまうのは事実誤認だろうか。

政治家が「小つぶ」になっただけではなくて、世論もまた勢いがなくて「閉塞感」に沈んでいはいないだろうか。社会正義がにぶり、小悪がはびこっているやにみえるのは国運が衰退しているからだろうか。目の覚めるような凄みのある言論も少なくなったように思える。

それらは、月並みながら「隔世の感」というべきだろうか。