ヨアヒム・フェスト著「ヒトラー最後の12日間」(2005年岩波書店)の、巻末解説「ヒトラーをめぐる現代ドイツの歴史学」で歴史学者・芝健介氏は、ヒトラーをめぐる現代ドイツの歴史学について、我々のような素人にも解りやすい説明を加えている。
「・・・・・フェストが一連の仕事を通じて衝いたのは、独裁者ヒトラーへの戦後の人物論的アプローチが、『悪魔化するか貶してまともに扱わないか』どちらかに終始しており、これは事実に向き合うことを拒否した一種の心理的『抑圧』にほかならないという点であった」(同213-4ページ)と述べている。
そしてフェストの仕事が
「・・・・とにかくヒトラーの場合も悪が陳腐な形で発展しうるというケースなのであり、この人物を感情的にではなく理性的に分析することが大切であるとしていた。ヒトラー、ナチズムの歴史化(歴史的客観化)を早くから強調していた点は注目されなければならない。」(同)としている。
また、こうした「悪が陳腐な形で発展しうるというケース」の先駆的な作品としてハンナ・アーレントの「イエルサレムのアイヒマン」を挙げている。ただし、
「・・・・彼女のこの著作は、『悪の陳腐さ』という本のサブタイトルだけがひとり歩きし、十分読み込まれないまま、・・・・・アイヒマンが退屈な小市民的執行人というイメージに矮小化されてしまった・・・・」(同)とも指摘している。

この「矮小化」は、とても重要な視点だと思う。以下、素人なりに考えてみたい。
映画は、首都ベルリン陥落という未曾有の断末魔の渦中での、ヒトラーをはじめナチス要人の狂態を事実に基づいて詳細に映像化した。総統地下壕で最後までヒトラーの側にいた、秘書のトラウデル・ユンゲの貴重な証言が、フェストの原作執筆の大きな動機でもあったようだ。この「物語化」することが一般に理解されるための有力な手法である。
これらのナチス指導者たちの犯罪行為の真髄には、いわば「ニヒリズムの極致」が潜んでいたのだとフェストは結論づける。それが全てを喪失した最後の段階で剥き出しになったのだと。
しかし、正直に告白すると、物語として映画を見ている限りではわかったように思えるが、これをすんなり実感を持って理解することは素人には難しい。
6年も続いた世界戦争の戦禍でヨーロッパは徹底的に荒廃し、5000万以上とも言われる犠牲者を出した。その間に600万以上人もの罪なきユダヤ人や障害者などが大量虐殺されたという。言葉で表現しようのない規模の惨劇に、私たちの貧弱な想像力が追いつかないのではないだろうか。ある限られた空間(この場合は映画館)での、一時の疑似体験にはなるが。
そして戦争体験のない私のような平凡な人間には、いくら言葉を尽くしてナチスのニヒリズムの異常さを説明されても、そのこととあのナチスの「人道に対する罪」とが、そんなに簡単には直結しいくい。誰しも人生や社会の不条理を感じていて、ある種ニヒリズム感覚を大なり小なり持っているのではないだろうか。理想と現実の落差の多い差を体験的に知っている。「ヒトラー最後の12日」という細部に、ニヒリズムの極限形としてのナチズムの全貌が凝縮しているという説得だけでは、1920年代以来のヒトラーとナチが歩んだ歴史過程とその背景を認識するなどということは、西欧の歴史知識や文化社会事情に疎い外国人には難しい。
映画はもちろん、そんなことは織り込み済みで製作されたと思う。しかし、つまらぬけちを付ける意図は毛頭ないが、やはり映画とその原作本だけでは限界があるように思った。

実際にひとりのドイツ軍兵士としてナチスの破局を経験したフェストが行き着いた衝撃的な結論のわりには、ハンナ・アレントが「イエルサレムのアイヒマン」で指摘したようにヒトラーが余りにも「陳腐な悪人」に見えてしまうという、ある種拍子抜けするような感想になりかねないのではないだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
それは22,3歳の若さでヒトラーの秘書として総統地下壕に住み、その最後をまじかに見た、トラウデル・ユンゲの「ヒトラーの魅力に屈することがどんなにたやすいことか」という告白と、大差はないのだろう。そばにいた頃のヒトラーの悪魔的な正体を見抜くことはできなかった。だからこそ、真実を知った戦後になって「大量殺人者に仕えていたという自覚を持って生きてゆくことがどんなに苦しいことか」という重苦しい胸の内を吐露せざるを得なかった。ユダヤ人大虐殺の事実すら、総統の側に居ながら事実は知らなかったようだ。
だが、秘書としてそばに仕えながらヒトラーを正しく認識できていなかったからといって、それを責めるのはやはり酷だろう。
誰しも皆、自分のことで精一杯なのが人生の実情だ。ましてやこのような非常時では尚更だろう。もともと彼女自身、同世代の人びと以上に社会的な関心があったわけでもなかったようだ。
私自身の60年余りを振り返ってみても、自らが当面する仕事や生活に取り組むだけのその日暮らしで、なんとか凌いで来たのが偽らざる実情だ。「世界」なんて観念のなかにしかない。
軍需工場で働く労働者が、実は完成品が殺人に使われると知って、「良心に従って」自分の生活を犠牲にしてまで仕事を放棄するかといえば、それはなかなか難しいだろう。
むしろ、「戦争だから」が言い訳にはならないと知ったのは戦後だったという、正直な告白をカメラの前(つまり衆目の前)で敢えてした、人間としての誠実さを高く評価すべきだろう。
そして、実は彼女の痛ましい経験は、今度は今の我々の身の上にも起きうると気づくべきなのだろうと思う。
映画が公開されて、一時「総統シリーズ」というパロディーが若者のなかで流行ったらしい。戦争を直接経験した世代が少数になった今、
「・・・・圧倒的な数のソ連軍に完全に包囲されてもはや生き残るチャンスがないヒトラー、ゲッベルスその他の指導者たち、彼らの不安と覚悟、絶望とそれでも点滅するかすかな希望、怯懦と英雄的精神、こうした感情の交錯を描いていく手法は、・・・・・・映画の人間ドラマがもつ同一視、一体化への吸引力から観客は逃れられないのではないか。こういう懸念は、真っ先にドイツ国内の少数派をなすユダヤ系の人々から表明されている。」(同213ページ)
のは至極当然のこととと思える。
つまり、パロディー化されるという事そのものが「人間ドラマがもつ同一視、一体化への吸引力」効果なのだと指摘しているのだと思う。その先にはヒトラーがアイドル化されかねない危険性もある。罪のない冗談では済まなされないということがわからないなにしろ、ナチスの「憲法改正手法」を「あの手口学んだらどうかね」と真顔で述べるような政治家が長らく閣僚経験者であるご時世だ。
さらに言えば、涼しい顔をして「戦後世代だから戦争責任なんて関係ない」と公言するような、無神経な人物が国会議員たりえる日本人の感覚はやはりとても危ういところに来ていると思う。
この映画の危うさもまた、ここにあるのだと芝氏は指摘しているのだろう。

これは考えてみれば当たり前のこととも言えるが、そういう指摘は日本では余り聞かない。
映画はDVDにもなり一般に視聴「消費」されている。映画を通したヒトラーやナチスのイメージが普及したことだろう。しかし、それが決定版のように錯覚されるおそれはある。そしてテレビゲームと実戦との区別が曖昧になりつつある今だからこそ、戦争体験の風化が憂慮されるなか
「・・・・歴史に無知ないし無頓着な人びとが圧倒的なのではないかということが知識人の間では云々され、映画上映自体が、結局ヒトラー、ナチスの復権につながりかねないと危惧する人も少なくない。・・・・」(215ページ)
ということになる。
そしてここに歴史を記憶するという作業の難しさ、ひいては当該国、当事者による「歴史認識」論争の難しさがあるのだろう。映画だけではフェストの意図がそのまま過不足なく観客に反映されるか疑問だし、そもそもフェストの原作の切り口それ自体も、ドイツにおける数多のヒトラーやナチズム分析のなかで、あくまでひとつの「試み」でしかないようだ。
なぜなら、戦後ドイツの歴史学の分野でヒトラーをめぐる長い論争は、いまだに決着がつかないくらいの難問なのだという。このことはそのまま
「・・・・・現在の日本人にとってもけっして素通りできる問題ではなく、我々の『過去の克服』とも大いに関わっているからである。・・・・」(215ページ)
との鋭い指摘につながる。
改めて、こうした問題意識はとても重要だと思った。