漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(2)

調べてみると、ゾルゲ事件関連については、これまでにも多くの出版物があった。

真相を明らかにしようという試みは、敗戦直後から始まった。
ゾルゲを頂点とする、いわゆる「国際諜報団ラムゼイ」の活動領域はソ連、ドイツ、中国、日本にわたり、当時の国際関係や国内事情が複合的に関連している。このため、多数の世界史的人物が相互に絡み合う事案なので、これまでに多様な角度から研究されてきたようだ。
昭和前期の息苦しいこの極東の島国を舞台に、前代未聞の国際的なスケールの大事件が起きたものだ。
それだけに、多くの研究者の探究意欲を強く刺激したのだろう。

ずぶの素人としては、いきなり専門的な研究書に入るよりも、まずはとっつき易い映像でおおまかな流れを押さえてみようと、2003年の映画「スパイ・ゾルゲ」を見てみた。

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篠田正浩監督がライフワークと位置づけた大作映画だ。
コンピューターグラフィックスを駆使して昭和初期の上海や東京の情景を再現、人気俳優も多数登場させ製作費20億円もかけたという。そのわりに、あまり面白くない映画だという感想もあったらしいが、私自身はもっと別の感慨を持った。

思うにこの作品は、事件の背景を可能な限りその時代の状況において理解させるために、相当の苦心をしたことだろう。
21世紀初頭の平和な日本で、あの暗い戦争の時代のリアリティーを再現するためには、実際のドキュメンタリー記録も入れて、どうしても説明調にならざるを得なかったのではないだろうか。
わずか80年前後の過去だが、これが同じ国とは思えないほどに風景も社会も異なるからだ。

何より観客の時代感覚が決定的に違う。

その落差を埋めるための説明にとらわれたので、多数の細切れ事象を繋ぎ合わせたぶん、ぶつ切れの羅列となった。だから全体として俯瞰すると、単調に見えてしまうきらいは確かにある。
しかし、昭和初期の歴史を学びたいと思った私にはおおいに参考になった。

1931年(昭和6年)生まれの篠田正浩監督は、敗戦の年には14歳だから、いわゆる「戦中派」最後の世代。きっと「軍国少年」の(洗脳)教育を一方的に叩きこまれたのではないか。そのあげくに、過酷な戦災と敗戦を多感な心に刻印したであろう。
そして、変わり身の早いおとな社会に強い不信を持ったのではないだろうか。
青少年は純真なだけに、無責任な為政者へ強い懐疑を持ったことだろう。

ちょうど、木下恵介監督の「二十四の瞳」に登場する子供たちにあたる世代だろうか。子供のうちに痛ましい戦争の犠牲者になった人が多い。大人たちの愚かな「失政」のお陰で、一番被害を受けた。
「鐘のなる丘」という、戦災孤児たちの美しくも悲しい歌があった。戦争を知らない私ですら、だいぶ後になって心に深く染み入る歌の意味を知ったものだ。私自身幼いころ、路傍で傷痍軍人さんたちの姿を垣間見た記憶がかすかにある。
愚かな戦争のため、日本はとても惨めな姿だった。

映画の説明臭さは、暗黒の昭和初期に生い立ち、運命的に戦争を体験した一人として、現代日本との大きな落差を前に、なんとかそのギャップを埋めようとした努力の結果なのではないだろうか。
平和が当たり前の、屈託のないいまどきの若者に、なんとか自分の生きた時代をわからせたい、と。ちょうど「蟻の兵隊」さんのひとりであった奥村さんが、靖国神社に遊ぶ若者と試みた対話が噛み合わない様子に似ている。
こうした世代ギャップは、高度経済成長やバブルの崩壊を経験した私たちと、21世紀に生まれた世代にもある。結局私たちは、それぞれの「時代の子」なのだろう。

監督よりもすこし上の戦中世代を両親に持つ私には、そう思える。
しかし、あの時代の場面設定なしでは、ゾルゲや尾崎の真実は描けない。

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映画「スパイ・ゾルゲ」から。ゾルゲと尾崎秀実

篠田監督はゾルゲと尾崎に相当な思い入れをしたようだが、割り切っていえば、歴史事実に則しつつも、それはあくまで監督が理解したゾルゲや尾崎秀実であるに違いない。

映画では尾崎もゾルゲも単なるスパイではなくて、明確な政治思想を共有する「同志」であった。それだけ、深い社会矛盾に向き合う緊張感があったのだろう。思想信条に身命を賭すような生き方は、今ではあまり流行らない。

ゾルゲはコミンテルン(共産主義インタナショナル)に尾崎を推薦もしたという。ゾルゲはもともと確信的な共産主義の組織活動家であり、尾崎は「協力者」。思想的に共鳴したからこそ、互いに生死を共有する統一戦線が組めた。二人は日本の植民地主義や帝国主義戦争には反対であり、当時唯一の社会主義国ソ連邦を信奉して動いた人なのであった。

映画は、昭和3年生まれの手塚治虫が昭和の終わりに「戦争の再来」への危機感を強く意識して描いた漫画「アドルフに告ぐ」とも繋がるように思える。
そこにはやはり戦中派手塚の平和への強い願いが込められている。
漫画では、共産主義者や自由主義者が「アカ」と呼ばれて凄惨な拷問を受ける場面があった。史実に基づいている。

私は、映画の出来栄えを高みにたって批評するよりは(もちろん素人の私にはその能力はほとんどない)、この世代の人々の歴史体験に思いを馳せることにも意味があると思った。

テーマのシビアさを考えると、映画の娯楽性だけで安易に判定してしまうと、大事な意図を見落としはしないか。

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篠田正浩監督

そう考えると、映画のほうは「尾崎検挙」で幕を切った直後に、列強の植民地支配に苦しむ昭和初期の上海の情景にスイッチ・バックした展開はうなずける。まずは日本帝国主義による中国政策の失敗から開始した。

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上海で中国人デモを弾圧する日本軍(映画「スパイ・ゾルゲ」

帝国主義列強に食い荒らされる上海の実情を、目の当りにしたアメリカ人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーと尾崎秀実が、侵略される側への共感からゾルゲにつながっていく過程を諜報団の始まりに設定したことには、監督のゾルゲ事件「解釈」が反映している。

しかし、この時点ではまだ尾崎秀実はゾルゲの正体を知らなかった。
尾崎は朝日新聞の「シナ専門家」だったが、搾取され抑圧される「シナ人」への同情があった。

一方のゾルゲはソ連赤軍第4部の諜報員として、上海で活動していたが、そのあと来日したのは、日本帝国主義の中国侵略と対ソ連政策の意図を探るためだった。

やがて二人は日本に入り、ゾルゲの要請にもとずいて再び情報を交換し合うようになる。再会の場は奈良・東大寺。
このとき、尾崎は上海でアグネス・スメドレーから「ジョンソン」と紹介を受けた人物が、実は国際共産主義者「リヒャルト・ゾルゲ」であることを知った。
尾崎は最後まで共産党員ではなかったかもしれないが、この時代、侵略戦争への反対を志向すれば、事の成り行きとして「共産主義」への共感は自然であったのだろう。

事実、融和的な社会改良案ではもはや時代の深い矛盾を克服できないほどに、日本自身は行き詰まっていた。
私は、その遠因は明治維新も含め近代日本の「国体の歪み」に発するように思うが、映画のテーマではないので、これは別途検討してみたい。
明治維新讃歌には強い疑念を持っている。

尾崎自身は家族に累が及ばないように、妻子にも自分の正体を明かさなかった。検挙後の特高の肉体的拷問に屈して自白をせざるを得なかったものの、絞首刑の最後まで信念を貫いたのであって「金も受け取らず、国民を売ってはいない」殉教者だったようだ。
篠田監督としては、ここは絶対に譲れなかったのだろう。

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尾崎秀実

一方のゾルゲは、かつて青年時代に帝政ドイツの熱に焦がれ、第一次世界大戦に意気揚々参加した人だった。ところが戦場の現実は理想とは裏腹、あまりに悲惨極まりなかった。三度の負傷にまみれた。やがて戦争を起したウイルヘルム2世の帝国主義政策への懐疑と失望から、「世界革命」をめざす共産主義に傾倒する。同時期のドイツには同じような経過をへてコミュニストになった青年が多かったようだ。

理想主義的な「インタナショナル」の歌が流れる場面がある。
私自身も学生時代のアルバイト仲間でひとり、酒場で見事にインタナショナルを歌った友人がいた。そこには理想主義的な響きがあった。まだ「世界革命」に魅力が残っていたのだ。

ゾルゲは、その明晰な頭脳と行動力を買われ、赤軍第4部の諜報員として上海に、やがて日本の動向を探るために東京へと派遣されて来たのだった。以後、足掛け8年の日本での諜報活動は、驚くべきことに天皇が臨席する「御前会議」のトップ・シークレットにまでアクセスできるレベルに達していた。

尾崎は「シナ問題」に精通したジャーナリストとして、近衛首相のブレーン「朝飯会」の一員に推薦され、やがて満州鉄道調査部に入った。帝国のハイレベルの情報に接する立場を得た。一方のゾルゲは表向きドイツの極東駐在ジャーナリストとして、日本の政治経済事情に通じる優秀な専門家という高い評価を受けていた。更に、ナチの党員証まで取得、ドイツ大使の個人的な信頼を得て、まんまと大使館内に一室を提供されるまで信用されていた。
二人は高度な国家機密を密かに収集し、正確な分析をほどこし、夜陰にまぎれてモスクワへ暗号打電する任務に就いた。そのための通信技師や情報提供ネットワークをゾルゲは築き上げていたのだ。

かくして当時の日本の政治的・軍事的動向は、そのままモスクワに筒抜けだったというのだから驚く。ゾルゲによると、ロンドンやワシントンよりも日本の国内情勢に精通していたのは、実にモスクワだった。
しかし、世界革命を目的とする政治主義イデオロギーは目的を達するための手段としての「粛清」までも正当化する。
いつの間にか、「人間」が革命の手段に貶められるという逆転現象が起きるからだろう。ゾルゲの末路も哀れだった。

それにしても生態の分かりにくい閉鎖的な島国の内部事情を、限られた条件のなかで比類なき正確さで分析してみせたインテリジェンスは凄い。
しかもスパイのレベルを超えて対ソ連戦争を回避するために、あえて情報操作まで行ったらしい。今日から見ても、あの時期によくもこんなに大胆不敵な諜報謀略活動ができたものだと思う。

アメリカ帰りの沖縄出身者・宮城與徳(画家でアメリカ共産党員)や天才的な通信技師タウンゼント、フランスの通信社員ヴーケリッチなど一騎当千の諜報員や技師がゾルゲの脇を固めた。ゾルゲは優れたオルガナイザーでもあったのだろう。
80年前、歴史も文化も言語もまったく異なる極東で、「外国人」たちが命懸けの国際諜報組織を運営するなどということは、並みの能力でできるわざではないと思う。
逆に言うと、それほど「コミュニズム」が思想としての魅力を持ち、有能な人材を得た時代だったのだ。

漫画「アドルフに告ぐ」で問題になったヒトラー出生の秘密は、このゾルゲ諜報団(ラムゼイ)に今一歩で繋がる寸前だった、という設定だった。

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手塚治虫記念館から

30年代後半ゾルゲの最大の諜報目的はソビエト防衛のため、日本に「北進」(シベリア侵略)の意図があるかないかを正確に読み取ることだった。折からのナチスの台頭で、東西の二正面作戦を回避したいスターリンにとっては必須の情報源の一つだった。新興国ソ連の生き残りがかかっていた。
息を飲むような緊張の諜報活動によって、「独ソ不可侵条約」違反のドイツ軍が東部戦線に170~90個師団以上を集結しているというトップ・シークレットをいち早くモスクワに打電。さらにはABCD包囲網に閉じ込められ「対日禁輸」で石油の枯渇に直面した日本に、北進の意図はないと送信したものの、その貴重なゾルゲ情報は当初採用されなかったようだ。
映画ではスターリンのゾルゲへの強い猜疑心が原因であったとされるが、このスターリンの歴史的判断ミスは、専門家の間では今も謎とされる。ドイツ軍の動向については、同じ種類の有力情報が、ドイツに潜入していたスパイからももたらされていたにもかかわらず、スターリンはなぜか油断してドイツの先制攻撃を許してしまった。

この時代のスターリニズムの非道さは映画「カティンの森」でも描かれていた。日本にいるあいだに、モスクワではゾルゲを派遣した幹部も故国では失脚・粛清されていた。実はゾルゲの帰国を心待ちにしていた妻も、ゾルゲをドイツのスパイと断じた当局から粛清されてしまっていた。つまり、いつの間にかゾルゲのソ連における足場は崩壊して、彼自身が極東に孤立していたようだ。

ある種の「偽装」かもしれないが、同時代人にゾルゲ自身は「おお法螺ふき」「大酒のみ」「女たらし」と酷評されることが多かったという。しかし、異郷の地での八年もの孤独で過酷な諜報活動では、正常な神経ではいられなくて当然だと思える。しかも帰るべき祖国での、自らの前途にも黒雲が湧き起こっていた。鋭敏なゾルゲにはそれが良くわかっていたのだろう。

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映画「スパイ・ゾルゲ」特高の摘発

目的がほぼ達成された昭和16年秋、ゾルゲたちは帰国準備の直前で特高に検挙された。それは偶然にも東条英機内閣の成立の日であった。カリフォルニア出身の宮城が捕まったことから芋づる式に挙げられたわけで、まさに一網打尽の摘発だった。特高にとっても想定外の大物が網にかかかったものらしい。

この摘発については、元共産党員の伊藤律による裏切り原因説などがあったが、今だに決着が着いていないようだ。
行方不明だった伊藤律が突然、亡霊のように再登場したときの騒ぎ(1980年)を憶えているが、なぜこの人物がそんなに話題になるのか、昭和史に疎い当時の私にはよくわからなかった。(最近、これを東條英機の近衛文麿追い落としの謀略と見る分析も出ている)

更に、冷戦崩壊後から旧ソ連や東ヨーロッパの情報が濾出し始め、新たなゾルゲ像が発掘されてきているようだし、中国、特に上海での活動実態などの研究はまだ未開拓だという。スケールの大きな事件なので、これからも新しい発見や分析が期待できるのだろう。
ゾルゲ自身についてもドイツとの「二重スパイ説」が根強くあり、映画の中でも尾崎はそれを疑っている場面がある。国家やイデオロギーを股にかけた諜報活動というのは、まことに微妙なものだと思った。

いずれにせよ「世界革命」を目的に生きてきたゾルゲは、自分の帰るべき祖国がすでにスターリンの「一国共産主義」のために大きく変貌してしまい、まさに秦郁夫氏が指摘するとおり「進むも地獄退くも地獄」の行き詰まりにあることをはっきり認識しつつも、最後まで国際共産主義者としてその生を全うしたことになっている。その苦しい胸のうちが乱脈な行動に現われたのだろう。

今日、静かに振り返って見ると、ゾルゲが最後まで忠誠を尽くした「ソ連」はもはや地上にない。結局、さしも稀代の大スパイ・ゾルゲも「正義」に翻弄されたのだった。
だから篠田監督は、その祖国ソ連が「開祖レーニン」とともに崩壊する映像記録を挿入した。

2.26事件の青年将校もまた同じ位相で描かれている。
この時代の日本の深刻な経済不況は今日からは想像しがたい。都市では大学を卒業しても職にありつけない失業者があふれ、農村の疲弊は目に余る惨状だったようだ。
ゾルゲやアメリカ共産党員の宮城與徳の眼を通して、当時の東北農村の悲惨な窮乏振りを描いた。
駅で外国人に物乞いする子供や、売春街に身売りをせざるを得ない貧しい家庭の子女は、同時にまた青年将校や兵士たちの家族であり、「尊皇討奸」を掲げる決起将校たちの強い叛乱動機になった。多くの国民が同情した理由もそこにある。
しかし、体制側の政府要人たちは、そこに国体を揺るがす「コミュニズム」との類似性を嗅ぎ取っていた。(近衛上奏文などはその典型に見える)
ところが天皇を奉じた「決起」は、逆に天皇によってあっさり「賊軍」と裁断されてしまう。叛乱軍将校に同情的な軍首脳は、かえって叱責を受けたくらいだという。

こうみると、漫画「アドルフに告ぐ」で、幼馴染ながら最後には果し合いをせざるを得なかった二人の「アドルフ」と似た顛末になっていることに気付く。
つまり、「国家」や「民族」、「イデオロギー」、あるいは「信仰」を「正義」と信じて命を懸けた人々が、ことこころざしに反して「正義」に裏切られ、無残に死んでいった悲劇を描かざるを得なかった。
それはまた、フルシチョフのスターリン批判にもつながる面があるのではないだろうか。多くの革命の功労者が残酷に粛清された。ここに、20世紀の戦争と革命の時代のひとつの真相があるのだろう。それがポスト・イデオロギー時代のニヒリズムに帰着するのは自然な流れだったと言える。

権力側から鼓吹される、あらゆる政治的プロパガンダをまずは懐疑してみせる強い「不信感」。様々な政治主張に敢えて距離を置く価値相対的な態度は、戦後日本ではむしろ一般的な姿勢かもしれない。今はそれすらもあいまいな「無思想」の時代になりはてた、と言えば酷だろうか。

歴史認識問題が、日本人自身の中できちんと決着しないまま戦後70年の時が過ぎた。これは「蟻の兵隊」でも指摘した。
かつて、父の葬儀に参列してくださった戦友の方々から、その苦しい胸のうちを伺ったことがある。たまたま生き残ったものの、人生の最後になってふと無残に死んだ戦友の姿が瞼に浮かぶ。
私たち戦後生まれにとってのヒーローには「戦争」の影を背負った人が多いと思う。横綱大鵬の回想にも、司馬遼太郎の問題意識にもやはり戦争体験があった。映画「東京物語」も直截的は描かれないが「戦争」が背景にある。

そういえば、全国民注視の中、1972年ルバング島から帰還した横井庄一さんの最初の言葉は、ハンカチを眼にあてながら「恥ずかしながら帰って参りました」だった。たまたま一緒にテレビを見ていた戦中派の叔父が、「そっとしてやって欲しいな」とポツリと述べたことを思い出す。

私は戦後生まれだが、やはりもういちど「戦争と革命の時代」にきちんとこだわる必要が大いにあると思った。

この映画で、そういう感想を得た。