昨年末にウイーンに住む学生時代の友人が一時帰国。久しぶりに久闊を叙することができた。
中東からの難民が過酷な逃避行のすえにやっとの思いでウイーンにたどりつき、そこからまたドイツに向う話を聞いて、その苦難を想像しているうちに、懐かしい映画「第三の男」を思い出した。正月休みにDVDで久しぶりに観てみた。何年ぶりだろうか。
改めて、彫りの深い映画だと心から感心した。いうまでもなく、不朽の世界的名作映画だ。
多くの人に一番心に残る場面は、やはり最後の別れのシーンだろう。
なぜこんなに心揺さぶられるのだろうか。
寒々とした晩秋の墓地には枯葉が舞う。
ここはウイーン市内の中央墓地。彼女アンナの愛人ハリーの葬儀が終わったところだ。ハリーは闇取引の密売人でお尋ね者だった。
ウイーンの地下水道での捕物、警察に追いつめられた挙句、親友ホリーに撃ち殺された。

映画評論家の川本三郎氏が的確に指摘しているように、この美女は国を失い、愛人を失った幸薄い人なのだが、その過酷な運命にもかかわらず、毅然として矜持を失わない。
それが、まっすぐに正面を凝視しながら胸を張って立ち去る姿に凝縮されているのだという。
左側前には荷車に持たれながら彼女を待ち受ける男ホリーがいるが、彼女は一瞥たりともくれないでまっすぐに立ち去る。彼は死んだ愛人ハリーの親友のアメリカ人だった。彼女はホリーが自分に心を寄せていることを百も承知だ。
だからこそ彼女はまったく無視して過ぎ去る。なぜならホリーは囮として当局に協力してハリー追いつめ、殺した張本人だからだ。
しかしホリーにも言い分はあろう。
彼女の愛人ハリーはとんでもない犯罪者だった。だからいったんは英軍の捜査に協力したが、最後の死に水は自分が取った。そこには「男の友情」があったのだ。
そして、不法滞在でウイーンを追放されそうな彼女だけはせめて助けたかったのだ。ホリーは彼女を愛してしまったから。
弁解するつもりはないが、そのための当局との取り引きだった。

確かに囮捜査に協力したが、親友を裏切ったつもりはない。逡巡の果てに決断したのだ。
だから最後の土壇場で、親友ハリーが深手を負って逃げ切れなくなったとき、アカの他人(英軍)に殺されるぐらいなら、幼なじみの自分が殺したほうがいいという、男同士の暗黙の相槌があった。
ここが切ない。

だから葬儀のあと、親友の愛人を墓地のはずれで待ったのだった。彼女への思いと淡い期待もある。
こうした経緯をすべて承知したうえでも、なおかつ女はホリーを厳然と峻拒したのだった。男もののトレンチ・コートがよく似合う。たぶん、死んだ愛人ハリーのコートだったのではないか。
ココ・シャネルの演出だという。

この袂別をアントン・カラスの爪弾くチターの切ないテーマ音楽が、まるで泣き悲しむように流れる。このラスト・シーンは、脳裡に焼き付くような感動の名場面だと思う。モノトーンの陰影がまるで絵画のようだ。
演じるのはイタリアの美人女優アリダ・ヴァリ。
薄倖の女性にふさわしい陰のある役柄だ。
このシーンにはため息の出るほど凛々しい、人間の矜持が滲み出ている。多くの観客が心揺さぶられる理由ではないだろうか。そこに魂の真実があると思う。
よく「人間の尊厳」などというが、オウム返しに唱えるだけでは心に響かない。このアンナのような、よるべなきか弱い女性が、あらゆる軽薄な憐憫を断然峻拒する姿に、事実の上で「魂の尊厳性」というものを感じさせてくれる。
それは必ずしも愛人の「犯罪」を是認しているわけではないだろう。ハリーは確かに悪辣な犯罪人だ。しかし、地上でたった一人になっても断固譲らない彼女の一途な愛がある。
私にはそう思える。
この女性は、原作者のグレアム・グリーンの小説ではハンガリー人だが、映画ではチェコ人。第2次大戦でドイツが降伏した後も、大戦後の東西陣営の「線引き競争」でスターリンのソ連が中欧を侵略したとき、国を追われてウイーンに逃げ込んで来た人のようなのだ。だから愛人ハリーの手配になる精巧な偽造身分証明書をもらっていたようだ。
つまり今様にいえば「政治難民」なのだった。
物語の背景には大戦直後の、複雑なウイーンの政治的事情がある。
今も中東からの「政治難民」がウイーン経由でドイツに向っている。
また癖が出てきて、この映画の背景をいろいろと調べてみたくなった。