映画「東京物語」(7)  小津流の表現

上京した老夫婦二人は、まず郊外の長男聡一(山村聡)の家に宿泊する。
さっそく、近くの荒川土手の上で孫の勇と遊ぶとみ(東山千栄子)。無邪気に遊びに夢中になっている勇を眺めながら、とみはふと独り言の様に語りかける。

「勇ちゃん あんた 大きうなったらなんになるん?」
幼い孫は、何も気づかない。
「あんたもお父さんみたいにお医者さんか?-
 あんたがのう お医者さんになるころァ お祖母ちゃんおるかのう……」
前半の印象的なシーンだが、敏感な観客はとみの寿命が尽きつつあることに気づくだろう。とみ自身が「死」を予感しているのかもしれない。
一般的に言っても、それまで先を見つめていたものの、ある年頃からは、逆に終末点から今を見つめるように心が変化するのではないだろうか。

熱海の温泉宿、団体客の喧騒に巻き込まれて一睡も出来なかった翌朝。
老夫婦は海岸の堤防で海を眺めている。

熱海にて
熱海にて

やがて立ち上がろうとしたとき、とみは目眩で手をついた。

周吉・・・「どうした-」
とみ・・・「なんやら 今ふらっとして…… いえ もうええんでさ」
周吉・・・「よう寝られなんだからじゃろう -行こう」

面白いことに、周吉は手をかそうとはしないでさっさと前に進むのだが、これでじゅうぶん心配しているのだ。若い現代日本人や外国人にわかるだろうか。

そして、東京駅待合室から夜行列車で帰る間際のとみ
「みんな忙しいのに ほんまにお世話んなって でも みんなにも会ぇたし これでもう もしものことがあっても わざわざ来てもらわァでもええけえ……」
これに志げ(杉村春子)が応える。
「なにお母さん そんな心細いこと まるで一生のお別れみたいに」
とみ「ううん ほんまよ ずいぶん遠いいんじゃもんのう」
明らかにとみは自らの死を予感しているのだが、長女志げはまったく意に介していない。
些細な場面だが、ここにも微妙な親子のすれ違いを描いた。この映画全編に貫徹している。
後になって判明するのだが、親子の今生の別れ際だったのだ。誰にも思い当たる、「愛別離苦」の峻厳な実相。

長男幸一と長女志げ
長男幸一と長女志げ

車中でとみが気分を悪くしたので、夫婦は途中下車した大阪で国鉄に勤める三男敬三(大坂志郎)の家に宿泊した。

そして尾道に帰宅した直後とみは倒れ、危篤状態に陥ったのだった。脳卒中なのだろう。
まるで子供たちにお別れを告げるための旅だったかのようだ。
死に行く人の無意識の行動が、後になってその意味が謎解きのように明らかになることは確かによくあるから不思議だ。
若いときは前ばかり見て歩くが、高齢期に達すると、終末点から今の自分を見ることが増える。

息を引き取った母の遺体の前で、今更のように志げ(杉村春子)が

「人間なんてあっけないもんね…… あんなに元気だったのにねえ…… 東京 に出て来たのも  虫が知らせたのよ」
と言うセリフは、誰しも大なり小なり経験する真実を衝いているのだろう。
私自身も、父の死の数日前には喪服を持参して東京の父のもとに赴いた。

そして、父が死んだときの母の言葉はやはり
「人生なんて はかないもんねぇ」
だったと記憶する。

さて、とみは医者の長男幸一の見立てどおり、深夜3時過ぎに亡くなった。
白布を被されたとみの遺体の前に佇む家族。夜明け前、ふと気が付くと、周吉(笠智衆)がその場を離れていた。
紀子(原節子)が捜すと、周吉は近くの寺の高台から遠方を見つめて呆然と立っていた。有名な場面だ。そのまま二人は並んで明け方の海を見つめる。
このときの周吉のセリフは、とても意味深い。
ため息交じりに

「ああ ……きれいな夜明 けだったァ…… ああ……今日も暑うなるぞぉ……」

紀子の視線を避けるように伏し目がちで下駄の音を立てて、周吉が家に戻る。
敢えてとみの死には触れない。それが寂寥感の深さを表している。こうした、いわば言葉以外の表現の作法をまだ日本人は豊かに持っていた。

TokyoStory1

私自身の場合は、母より先に父が亡くなった。

どのくらいたったかときだったか、父の遺体を前に、母は遠くを見つめるようにして、確かにこう言ったことを覚えている。
「・・・・お父さんは、あの空の向こうに行ったのかねぇ。」

これは、なぜだろうか。
つい先ほどまで息をしていた父が微動だにしなくなったので、たぶん魂が「遠くへ行ってしまった」ように母は感じたのだと思う。(その母も先年亡くなった)
周吉もやはり、とみが脳溢血特有の荒い息遣いをしなくなったあと、静かに止まったのを見つめているうちに、遠くへ去っていった、と感じたのだろうと思う。
それまでは確かに動いていたからだ。
肉体とは別に「魂」などというイメージが、仮想されるゆえんだろうと思う。

「愛別離苦」とは、生者の「未練」が原因であるに違いない。その執着が、きっぱりとした変化についてゆけないから苦しむのだという。しかしそれは誰しも免れ得ない。

周吉は嘆息混じりに、ただ「遠い海の夜明け」を述べた。同伴者は義理の娘・紀子だけだ。
これは、見事な場面設定と言うほか無い。それが最後になって、周吉と紀子の「魂の対話」へと連動するのだろうと思う。

数日過ぎて葬儀の後始末も終わり、紀子がいよいよ帰京する日。
庭いじりを終えた周吉が部屋に入って来る。
「京子出かけたか」
周吉は、京子が出勤したことを確認している。紀子だけに話すことがあるからだ。
そして、そこに開かれる義理の親子の「魂の対話」。
映画はクライマックスを迎えた。

周吉・・・「お母さんも喜んどったよ- 東京であんたんとこへ泊めてもろうて いろいろ親切にしてもろうて……」
紀子・・・「いいえ なんにもおかまいできませんで……」
周吉・・・「いやァ お母さん言うとったよ あの晩がいちばんうれしかったいうて わたしからもお礼を言うよ ありがと」
紀子・・・「いいえ……」

周吉はお礼を述べる
周吉はお礼を述べる

周吉・・・「お母さんも心配しとったけえど- あんたのこれからのことなんじゃがなァ…… やっぱりこのままじゃいけん よ。 なんにも気兼ねはないけえ ええとこがあったら いつでもお嫁にいっておくれ。 もう昌二のこたァ忘れてもろうてええんじゃ。 いつまでもあんたにそのままでおられると かえってこっちが心苦しうなる  -困るんじゃぁ。」
紀子・・・「いいえ そんなことありません。」
周吉・・・「いやァそうじゃよ あんたみたいなええ人ァない言うて お母さんもほめとったよ。」
紀子・・・「お母さま わたくしを買いかぶってらしったんですわ。」
周吉・・・「買いかぶっとりゃァしェんよ」
紀子・・・「いいえ わたくし そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父さまにまでそんな風に思っていただいてたら わたくしのほうこそかえって心苦しくって……」
周吉・・・「いやァ そんなこたァない。」

紀子は、それまで打ちあけられなかった心情を思わず漏らす。

紀子・・・「いいえ そうなんです。わたくしずるいんです。 お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど そういつもいつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません。」
周吉・・・「ええんじゃよ 忘れてくれて。」
紀子・・・「でも このごろ 思い出さない日さえあるんです。 忘れてる日が多いんです。
 わたくし いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。 この ままこうして一人でいたら いったいどうなるんだろうなんて- 夜中にふと考えたりすることがあるんです。 一日一日が何事もなく過ぎてゆ くのがとっても寂しいんです。 どこか心の隅で 何かを待ってるんです。 ずるいんです。」

紀子は、何を「ずるい」と言っているのだろうか。昌二を忘れる自分を責めているようにも見える。しかし、この告白はもっと本質的な言葉なのだと思う。

それは、紀子が育った時代の「家」中心の道徳規範が、彼女を外から縛ってきたからではないだろうか。「嫁」という漢字の形どおりだ。まるで「家」のアクセサリーのような存在だから、自分から主体的に動くことはできないが、内心はある「変化」を待ち望んでいる自分。
それに、「英霊の妻」たるものの自制心も、紀子の心理に負担を強いていたのかもしれない。私も父母や叔父叔母たちの世代から、こうした戦中派世代の不遇な思いをいろいろ聞いてきた。
いかにあの愚劣な戦争が青春を歪めたか。

しかし、時代のほうが無情にも自分を置いて先に行ってしまった。目先のきくおとなは、さっさと身を翻して新しい状況に追随して生き延びた。古風な紀子には、そうした器用な生き方ができなかったのだろう。戦前の教育を受けた人ならではの言葉使いに、よく表れていると思う。

話を戻すと、周吉は東京で実の子どもたちの変わりようを思い知らされたぶん、嫁の紀子の行く末が気がかりだ。紀子が尽くすべき「家」は、周吉の死とともにまもなく消滅する。
このままでは、子供もない紀子は、一人寂しく取り残されてしまう。

規範意識の強い、真面目な人ほど深刻な自己矛盾を抱え込む。時流は非情だ。
だからこそ、京子に向って思わず
「そう いやなことばっかり……」
と紀子は嘆息してみせたのだ。
周吉は、そうした紀子の心情を察知しているのだろう。

周吉・・・「いやァ ずるうはない」
紀子・・・「いいえ ずるいんです。 そういうこと お母さまには申し上げられなかったんです。」
周吉・・・「ええんじゃよ それで やっぱりあんたはええ人じゃよ 正直で……」
紀子・・・「…… とんでもない」
紀子は顔を背け俯く。
義父がすべてを飲み込んでくれた。

映画「東京物語」から60年余り後の現代日本には、家族崩壊の果ての「孤独地獄」が多いという。最近、「無縁社会」などという言葉も出回った。
周吉の時代の晩年から次第に顕著になった世相風景は、果たして輝かしい「進歩」の結果だと言えるのだろうか。科学技術の発達と経済繁栄のお蔭で物質が豊かになっても、それが人々の幸福にそのまま直結したとは必ずしも言えないだろう。

「東京物語」は、家族の崩壊を通して人間の孤独を描いたと言われる。
映画が描いた本質的な問いは今も新鮮ですらある、と私は思う。

そして迎えた21世紀日本は経済も低迷し少子高齢化で人口も縮小している。襲来する大波は史上かつてない超高齢社会。よりどころのない漂流のなかに私たちはいるのだろうか。

社会のありさまを声高に指摘しない「さり気なさ」が小津映画の特徴だという。監督自身も「社会に関心はない」と誰かに述べたとも言われる。
しかし小道具を何一つゆるがせにせず、無駄な言葉を省き、演者のさりげないしぐさで微妙な心理を表現したという小津監督の「完璧主義」が、密度の高い映像空間を達成していると思った。

そして戦後生まれの私には、ここから戦後史の一端をありありと学んだように思う。

小津安二郎青春館より