司馬遼太郎記念館

司馬記念館

東大阪市で道を歩いていて偶然に出会ったのだが、せっかくの機会だから、「司馬遼太郎記念館」をさっと見学してみた。

膨大な蔵書だ。司馬の自宅を改造したものらしい。

司馬遼太郎こと福田某は、大阪外語モンゴル語科出身で、父と同期。ただし、父は彦根高等商業学校・・・・現在の滋賀大学・・・から大阪外語に入っているので司馬よりも二つ歳上。

つまり司馬は大正12年生まれの戦中派なのだ。数年前に死没した父と司馬の間にどんな交流があったのかどうかはわからない。小さな外国語専門学校だから顔見知り程度の知遇はあったかもしれない。
「福田君は産経の記者だったんだ」と語っていた記憶もある。

司馬はモンゴルに戦車隊の一員として出征している。
そして記念館の説明によると、22歳で敗戦を迎えた。一方の父は、専門学校卒業後、帝国大学に進学したが、結局「学徒兵」として仕方なく出征した。通信将校だったという。

「学徒兵は惨めだった。半分は戦病死だよ。戦って死んだならまだしも。日本は実にバカな戦争をしたんだ。生き残っていたなら、どれだけ日本の再建に貢献できた人たちだったかと思う。」
何度もそう聞かされた。

司馬はその後、産経新聞の記者として京都宗教記者会にも所属していたときがあったようだ。

実はこの記者会は西本願寺の宗務庁にあり、私も用事で何回か訪れたことがある。そして司馬がときどき昼寝をしていたというベッドも残されていて見たことがある。何の変哲もない古ぼけたベッドであったように記憶している。

司馬の作品についてはせいぜい「国取物語」「坂の上の雲」くらいしか読んだことはないので、「司馬文学」とかを語る資格は自分にはない。

ただ、この記念館を見学して初めて知ったのだが、司馬は敗戦のときに自らの心に生じた「日本人はなぜこんな愚かな戦争をする民族になってしまったのだろうか?」という素朴な疑問がきっかけになって、歴史と人物を渉猟したのだという。
あの歴史小説がその結果であるのだという。

この世代の青春に共通の痛切な「敗戦体験」がやはり原点なのだ。

司馬自身の言葉によると「自分の作品は結局、あの22歳当時の自分への手紙なのだ。」ということだった。
この言葉は心に残った。

得心のいく話だと思ったからだ。戦争の愚かさと平和の尊さが身に染みているのだと思う。そこに原点がある。こうした人々が活躍している間の日本には、まだ健全な良識が機能していたのだといえる。
確か、手塚治虫の漫画にも大阪大空襲で生き残れた自分自身の空襲体験が描かれていた。

今はどうか。

最近の政治家の一見マスコミ受けを狙った軽率な言動を聞いていると、こうした「敗戦体験」に根ざした平和への思いを冒涜するような、愚かで危険な言葉が増えている。

その口吻は一見勇ましそうであるけれども、大衆の欲求不満におもねる下心ばかりが透けて見える。余りに無責任な発言が多いのではないかと思う。

歴史を謙虚に学ぶべきだ。司馬が聞いたら、「日本人はまた馬鹿なことを繰りかえそうというのか」と、きっと嘆くに違いないと思った。

それはまた、父の世代の共通認識だったのだ。

私は世代を受け継ぐ者として、及ばずながら先人の大切な原体験を丁寧に尊重したいと思う。