「O.K牧場の決闘」と「大利根月夜」

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1957年の作品だそうだから、アメリカが最も輝いていた頃の映画だ。
時代設定は南北戦争(1861-65)直後なので、同時代の日本は江戸時代末期から明治の初年にあたる。
ここを押さえておいて、すこし長くなるが、映画を見てない人のためにストーリー紹介・・・

典型的な西部開拓時代の町、フォート・グリフィンへ出向いたダッジ・シティの保安官ワイアット・アープ(バート・ランカスター)は、酒場で旧知の賭博師、ドク・ホリディ(カーク・ダグラス)と再会した。

ドク・ホリディは肺を病んでおり、今では身を持ち崩し、酒と博徒に明け暮れる無頼の毎日だ。しかし、同時にドクは類まれなガン・ファイタ-でもある。

以前イカサマをやってドクに殺された男の兄と仲間3人が、敵討ちに街にやってきている情報をアープは知っていた。
アープはドクに相手をしないよう忠告したが、ドクは「余計なお世話」とばかりに無視している。
そこで、アープはドクに男の友誼で詳細を与えた。「気をつけろ、奴はいつもブーツに銃を隠している」

やがて場面はくだんの連中が酒場で飲んでいる酒場。そのベイリー(リー・バン・クリーフ)たちの前に宿敵ドクが現れた。
ドクを撃とうとブーツから銃を取り出したベイリーが構えた瞬間、ドクの放ったナイフが先にベイリーの胸に突き立っていた。

ドクの情婦ケイト(ジョー・バン・フリート)が、「先に抜いたのはベイリーの方よ!」と叫んだが、ドクは町の連中に引き立てられていく。
ケイトから懇願されたアープはホテルの一室に監禁されていたドクをリンチ寸前に救い出し、ケイトと一緒に馬で逃がしてやった。すんでのところでリンチ刑を免れたドクは、アープに「借り」ができた。

ダッジ・シティに戻ったアープは、やがてそこへドクとケイトが逃げてきたのを知った。「この街へは来るなと言った筈だ」と厄介顔。
「いや、借りがあるからな」 ドクは咳きをしながら答えた。肺結核がかなり進行している様子。ドクは勝手にアープの助っ人をしようとやってきたのだろう。借りを返すためだ。

盗賊リッチー・ベルが仲間と隣町の銀行を襲ったのを知り、アープはドクと出かけた。ドクは激しく咳き込んでいる。野営しながらアープは忠告する。
「そんなことをしていると1年ともたんぞ。酒と手を切り、空気のいい山で暮らせ」
「ベッドで死ぬのだけは嫌いだ。いつか俺より速く撃つ奴が現れて、どうせ一瞬のうちに終わるさ」
二人が寝静まったころ、リッチーたち3人が銃を構えて忍び寄ってきた。寝ていても油断のないドクが気配を察して起きあがり、その拳銃があっという間に3人を倒した。

博打に明け暮れるドクからまともに相手にされないケイトは、早撃ちのリンゴ(ジョン・アイアランド)とねんごろになっていく。

アープのほうも、ローラと所帯を持ち、カリフォルニアで新しい生活を営む決心をした。
アープ 「牧場を買ってローラと結婚する。式に出てくれ」
「いや、俺は葬式が専門だから・・・」 ドクはうそぶく。応え方がなかなかきざ。
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そんな折り、アープにトゥームストンで保安官をしている兄バージルから電報が届いた。
悪党アイク・クラントンの一家と対立している、手数が足りないから加勢してくれ、というものだった。アイク・クラントンはならず者を集め、メキシコから牛を盗んでいるのだった。
アープは反対するローラを置いてトゥームストンへ向かった。やがてドクが追ってきた。
「俺もいくとこだ、(空気が)咳きにいいそうだな」
どこまでも助太刀とは言わないドク。名うての早撃ちであるドクが来てくれればアープも内心、百人力だ。
だが、兄のバージルはドクの助太刀に難色を示した。その悪名は西部に行き渡っていたからだ。正義の戦いに表だっての助っ人は困る。ドクもそれは百も承知のこと。

酒場で酔いつぶれたクラントンの弟ビリー・クラントンをクラントン牧場へ送り届けたアープは、アイク・クラントンに言った。「盗んだ牛をメキシコへ返せ」 アイクは歯軋りしていた。アープが連邦保安官になった今では、まともには太刀打ちできない。

その夜、ダッジ・シティで、アープの替わりに巡回に出た弟のジミーがクラントン一味の襲撃を受けて死んだ。アープは怒りに震えた。
そこに今度はクラントンの弟ビリーが、アイクの伝言を伝えに来た。
「OK牧場でクラントン一家対アープ一家の決闘をしたい」 アープは受けてたった。
「だが、お前は参加するな、命を無駄にするな」 アープは若いビリーに言った。
「・・・そうはいかない、俺もクラントン一家だ」

アープは助っ人役を頼もうと、ドクのいるホテルに会いに行った。しかしドクは咳きが昂じて体調不良、ケイトの看護を受けていた。「死にかけているのよ」(アープ一家の助太刀をするどころではない)ケイトはすげなかった。ドクの応援は望めないかもしれない。

翌朝、アープ兄弟は町外れのOK牧場へ向かった。だが、そこにやはりドクが来た。
「唯一の友人の側で死なせてくれ」 ドクは言った。

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OK牧場ではクラントン一家が待ち構えていた。リンゴも仲間に加わっていた。
アープ家4人対クラントン家7人の凄まじいガンファイトが火花を散らした。典型的な西部劇の銃撃戦を堪能できるシーン。結果、傷つきながらもアープ家は勝った。

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アープは保安官バッジを捨て、カリフォルニアへ向かう。ローラが待っている筈だ。 別れ際に「入院しろ、このままじゃ持たんぞ」、アープはドクに言って去る。
「今、つきが回っているんだ、余計なおせっかいやきめ」
ドクはカードをもてあそんでいた・・・・・

以上、単純といえば確かに単純な話ではある。無頼の人生を送ってきたドク・ホリデイの、失うもののない「美意識」が観客の共感を得たのだろう。
アープとの「男の友情」を全うした。

この映画を見ていて心に浮かぶのは、ドク・ホリデーのキャラクター設定が私にはなぜか日本の「平手造酒」を髣髴させること。

ご存知、あの「大利根月夜」。
子供のころ、聞いた浪曲「利根の川風 袂に入れてぇ・・・・」

今はやくざの手下として、大利根暮らしの無宿者だけど、もとをただせばれっきとした侍育ち。腕は自慢の千葉(道場)じこみ・・・・という、あの平手 造酒(ひらて みき)にドク・ホリーデーのキャラが似ているのが私にはとても興味深い。

平手造酒ちなみに平手 造酒をwikipediaで調べてみると、
「仙台藩士あるいは紀州藩士とか諸説あるが、流浪の末下総国香取郡松崎(現在の神崎町松崎)の名主宅に身を寄せ剣術道場を開いていた浪人といわれる。
博徒の親分笹川繁蔵と知り合い、天保5年(1844年)8月6日、飯岡助五郎との大利根河原の決闘に笹川方の助っ人として参加し闘死した(臨終は翌日の朝)。享年30、あるいは30代とも。
争闘は笹川方優位に決し、笹川方で死んだのは造酒一人のみと伝わる。墓所は千葉県香取郡東庄町の延命寺。また、神崎町松崎の心光寺にも、身を寄せていた名主の建立した平田三亀の墓がある。
講談や浪曲の『天保水滸伝』では、江戸は神田お玉ヶ池の千葉道場で千葉周作門下の俊英であったが、酒乱のため破門されて胸の病におかされながら博徒の用心棒となった素浪人として語られ、笹川繁蔵や飯岡助五郎に劣らぬキャラクターとして人気を博した・・・・。」

ということになっている。
長々と紹介したのは、細かい違いは別として、主人公のドク・ホリデーと平手造酒の性格描写がよく似ていることに注目したい。

二人とも肺結核でしばしば血を吐く、などというところもそっくりなので不思議なくらい。もっとも、この時代、「結核」は世界的に流行った不治の病だったのだろうか。

もちろん、南北戦争直後の大西部と極東の島国ニッポンの幕末、という歴史的社会的設定の違いはあるが、それにも拘わらずそのキャラには実に興味深い共通性が伺われると思うのだがどうだろうか。

恵まれた家庭に育ち、資産家の親のお蔭で大学まで行かせてもらって歯医者にまでなったはずなのに、ドク・ホリディは博徒に身をやつし、肺を病んでおり、今では酒とカード賭博に明け暮れる無頼生活だ。

笑えるのは、その昔、保安官ワイアット・アープの虫歯を治療してやったことで顔なじみだったという筋立て。
だいたい、歯痛に悩む保安官ワイアット・アープという設定が微笑ましい。まだ、のどなか時代だったのだろうか。そこにはあの「人情」がからむのだ。

一方の平手造酒は、侍育ちで「千葉道場でも5本の指に入る北辰一刀流の使い手ながら、酒におぼれて破門され、ヤクザの用心棒に身を落とし、やがて肺を患い(結核という話が多いが、じつは酒毒だったという説もあるらしいが)最後は、大利根川原のヤクザどうしの決闘に助っ人参加して討死しました・・・・。」
ということになっている。

辰巳柳太郎

大利根月夜の剣客と西部開拓時代のガン・ファイターに、こんな類似点のあることとがとても面白いと思う。

何れも実在の人物を大衆受けするように、かなりデフォルメしたのだけど、時代設定はちょうど幕末から明治初期の頃。

互いに、一宿一飯の義理と人情、あるいは男の友情の世界なのだ。もちろん、封建的身分制の島国と西部開拓時代との違いなどをあげつらえばこれまた切りがないが、人のつながりかたとか、身の持ち崩し方に意外な共通点があると思った。つまり「人情もの」としては共通項があるのだ。ここを強調したい。そこに「普遍性」の一端がありはしないだろうか、と。
私は21世紀「グローバリズム」といわれる時代を生きるヒントを考えている。

二人とも、落ちぶれてはいるけど、自らの出自への誇りは秘めている。ドク・ホリデーはさすらいの賭博士ながら、いつも服装・身なり・髪型、せりふまで貴族的に決めている。平手も落ちぶれたとはいえ、侍ニッポンの矜持を最後まで捨ててはいない。

社会システムからドロップ・アウトしているが出自は消せない。
そして、それぞれの無頼者は「死に場所」を求めている。無欲な男がほんものの極道(悪党やチンピラではない)を究めると、最後に残るのは、「友情」や「義理と人情」という話。

kirk Douglas

ドクは保安官ワイアット・アープとの「友情」から牛泥棒との決闘に加勢するし、平手は一宿一飯の宿主「笹川親分」との義理で、利根川河川敷のけんかに加勢する。
どうせ死ぬのだから欲得なしだ。

そして、否、だからこそ二人とも戦いの場で、勝敗を決する大立ち回りをやってのける。腕力だけの話ではない。
そもそも死に場所を求めているのだから、対する相手も尋常な戦い方では勝てない凄みがあるのだ。それが強さの秘訣だろう。命を惜しまない男がこの世では一番手強い。
スクリーンを見ていて、溜飲が下がるわけ。

ドクは生き残るが、たぶん、肺結核の末期。その死を暗示するかのように象徴的な無縁墓のシーンが何回も登場する。平手は深手を負い、翌朝死ぬ。

人気の秘密は、チマチマした社会システムの中でつまらない利害打算(役人世界では『忖度』という)に憂き身をやつすよりは、アウトローの生き方のほうがよほど魅力的ではないか、という類の話なのかもしれない。
そうした心情には、洋の東西を超えて大衆に共感を呼ぶだろう。しかし、まさか西部劇と幕末の剣客の人情話にこんな類似点があるとは興味深い。。。。と思うのだけど、そんな見方は「少数派」かもしれない。

異文化理解のために「互いの違いを理解しよう」などというけど、そんなに大げさな話をしなくても、卑近な大衆文化のなかに面白い相互理解の糸口があるのではないだろうか。
確かに「他愛のない人情もの」なのかもしれないけど、ふたつとも広く庶民から愛された物語なのだから、馬鹿にはできないと思う。

そして、私も無責任ながら、「極道」の人情話が好きなのだろう。